学ぶ気のない学生の大量発生⇒日本の大学の本質的危機 = 根本矛盾
期待すべき方向性で動いている気になる大学が数校在るけれど、ホームページの全般的動向の雰囲気から感じられるのは、「総じてFD関係の情報が少なくなっていると同時に、画面の更新が滞りがちのサイトが増えている」ように思われる。更新されているとしても、例年通りの内容をコピーしたに近く、日付だけ新しくなっているような感じのサイトが増えている。このような傾向のFD活動を名付けて「惰性のFD」と呼ぶことにする。法的に義務化されたからには、何なりかのFD活動を継続しなくてはならないので、そうなれば一番やり易いのは前例に倣うことで、ルーチンワークとして実行して行かざるを得ない状況の大学が増えているということのようだ。
ああ、エライ事になってきた。大学の危機がそこまで来た
本来のFD(20年前、1期の先生方がリードされている頃)は、こんな惰性の営みで続けるようなものと全く違っていて、「より質の高い大学をめざして」情熱を燃やして挑戦していたのではなかっただろうか。それが今日の姿に繋がってきたのだ。この間に大学数は200校増え、少子化で、誰でもが大学に入れる時代は、一層拍車をかけたのだった。そして、到達したFD活動の姿は、「惰性のFD」という格好になったということだろうか。この推移には、併行して大学の変化過程が反映している。よくよく分析する値打ちはあると思われる。FDが義務化されて(文科省としては、大学教育の質を高めようとしたわけだ)大学教育の質を上げることを要請されたことを知りつつも、多くの大学教員の“本音の行動”は、FD活動に前向きにならなかったと言えるのではないだろうか。本来なら、歓迎すべきことのように思えるのだけれど、そうは成らなかった。なぜなのか。
10年前くらいにFD運動は一つの盛り上がりを見せた。京大での高等教育のミーティング参加者がどんどん増えて、最高は700人位まで増えたように記憶している。この頃は、学生数の劇的な減少が予測されていて、「魅力のない大学は、入学生を確保できない」という経営面での切羽詰まった状況が、FD運動を支えたと言い得るように思う。よって、この頃のFD運動は「倒産回避のFD」と名付けるか。その頃日本の大学数は、475校くらいだった(大学の新増設を文科省は、制限していた)。大学の倒産時代と宣伝されていたけれど、実際の推移を見てみれば、経営危機に陥った大学もあったが、「何とか経営していける大学」が大半であったため、「倒産回避のFD」は急速に萎んでいったのであった。何とか倒産は免れたという気持ちが学内に漂えば、「無理をしつつもFDに注力していた教員達」は、安堵感と共に興味を失っていくのは想像に難くない。
その後、文科省は大学の新増設の基準を緩和して、その代わり経営責任は理事会でシッカリ担って行きなさいやと(国立大学法人化もある)いうことになり、今やネット大学なども設立されてきて、750校くらいに増えているらしい。
この辺りから、FD研究会の参加者数は徐々に減りだした。自主的にFD運動に入ってきた人達は、続けるか、引き上げるかの選択をした。その後も続けている人達の多くは、自分の大学でFD運動の世話方かリーダー役を担っている人達だった。FDに関心を向けさせるためにどうするかを考えるわけだけれど、時の情勢はFDの波の引き潮にあった。潮の流れを止めて、再び上げ潮にするには、学長なり、理事長なりの上からの強い働きかけでもなければ無理な情勢だった(本来のFDに興味関心を引き付ける力が無かったことの総括も大切なのだが)。FDを動かす多少の義務感なり、責任感なりはあっても、権限のない担当教員だけで「ボトムアップでFD運動を動かすには無理な情勢になっていた」。学内情勢も全国的な情勢も「笛吹けど踊らず」の情勢になっていた。
学内に影響力を及ぼせないとしても、役目上、FDを推進している顔をしなければならない。そうなれば、無い知恵を絞り出してでも、「こんな試みをすれば、FDに有効でないだろうか」といった研究発表をすることになるのは必然である。この研究発表会は、次第に「論文稼ぎのFD」に変質していくのは仕方がない。
現在、FDの研究をしたり、意見交換をしている場では、多く「論文稼ぎのFD」に成ってきている。そこまでの研究心が出せないところでは、残念ながら「惰性のFD」になってしまっている。いずれにしても今は、惰性のFDで、研究発表をして、業績点を稼いでいる。
2000年くらいから後のFD運動を私の独断と偏見で書けば、おおむねこんなようになる。「倒産回避のFD⇒論文稼ぎのFD⇒惰性のFD」と推移してきた。この推移は、ほぼ正しいと思うのであるが、読者の考えは如何だろう。なぜ日本では、「本来のFD」が追求されなかったのだろうか。
外国の事情は殆ど知らないけれど、「FD」=Faculty Development は、決して「倒産回避」などという低次元での考え方ではないはずだ。この考え方は欧米由来のものだから、推測するに「競争優位」の考え方をベースにしているものと思われる。何とか生き延びるという消極的なものではなく、「トップ大学になるためのたゆみない挑戦」と考えられていたと思われる。“一歩一歩着実に教育を改善し、大学教育の質を向上させていく”ための運動なのである。それが日本に輸入されて、「倒産回避のために」応用されるに及んで、FDの本質をスッカリ潰してしまったのである。
本来なら、FDは学生のレベルアップのためのもの(大学の評価アップのもの)
「そんなの解っている」長々と解りきった話を書くなと叱られそうだが、FD運動がどのような経過を辿ったかを押さえておくことはだいじなのである。なぜなら、現在の日本の大学は「矛盾の極にあると言える」からである。そもそもFDの必要性を訴えられたFD1期生の先生方は、(国際的に低くしか評価されていない日本の大学を内容的に高いレベルに引き上げるべきだと考えられて)大学教育のレベルアップを目指されたことは間違いないのである。しかるに、FDは変質して「倒産回避のFD」が唯一盛り上がって、何とか倒産せずに経営ができると思えた頃からは、FD運動は、急速にボシャってしまうのである。
日本の大学教員のこの単純さ、思想の浅さが「FD運動のここ15年に象徴されている」と言えないか。早い話、“月給が貰えさえしたらよい”というのである。この次元に留まる限り、FD運動は「本来の道」を歩むことは出来ないだろう。どうもここに、大学を取り巻く数々の矛盾の源泉があるように思われる。その主要なものを上げてみる。
・世界の優秀大学の100位に入る大学が、3校くらい(学問レベルが低いとされる)
・勉強する気がない学生⇒卒業資格の判定が甘い(大卒資格に裏付けがない)
・(日本の)大学の存在意義が疑われてきている⇒根本的な矛盾になる
・大学教員の「教育」に対する熱意が弱い⇒「優秀な教育指導に対する報償がない」
・学問的意識の低下は、大学教員自身の気の緩みを誘発する⇒手抜き授業
・大学院の学問レベルの低下が嘆かわしい(不適格院生の進学を容認している)⇒オーバーマスター・オーバードクターの就職難(実力不足。即戦力になり得ない)⇒実力不足の新規大学教員になる⇒学問レベルの低下になる悪循環
・大学卒業とは名ばかりの卒業生が増えてしまった(大学卒業の学歴に実質的意味が伴わない)
大学教育は「より良き社会人の養成」が目的である
果たして「今の大学が、それに取り組んでいるか」
建前論を展開しても、運動は起きない。社会的動きに連動して「教育の改革(=大学改革)運動」に結び付けていかねばならぬ
日本の大学が、現在抱えている最大の矛盾は、学問と切り離された卒業証書製造施設に成り下がったことにある。大学が学問の府でなくなりかけているのである。この現状を素直に認めるならば、「大学再生のために何としてもしなければならないこと」は、卒業証書の大量発行を止めて、卒業生の能力的保証に責任を持ち「卒業資格の判定を厳しくすること」である。言い換えると、「無試験入学に対して、卒業のハードルを高くする(米国の大学に倣った「卒業生の品質管理手法」の導入を)改革をせよということである。
即ち、卒業しにくい大学制度を始めよということである。
そのためには、文科省の補助金制度を改革し、学生の人数による配分を止めて、卒業基準を高くする大学(優秀な卒業生の人数に対する補助へ)への補助金に変質していくことである。
これらの矛盾に気付き「矛盾を解消するための営み」を始めるならば、“それは正にFD運動を正しく進めること”に直結すると思われる。
「輸入のFD」に心情的に反発を感じるなら、日本の状況をベースにした「大学教育の改革運動」が考えられ、提案される必要があると思われるのであるが。
そういう方向性をもって改革運動を起こしつつある大学よ、出でよ!
ネットの案内で見付けて、2年半ぶりにあるFD研究の会に参加させていただいた。そして、「変質中のFD活動の兆し」といったものを感じてしまったので、今回はその印象と分析を書いてみることにする。
変質は、3年も5年も前から何となく感じていたけれど、それはあくまでも何となくで明確にここが違ってきたと言えるものではなかった。しかし、今般それが言えるようになったのである。それは、FD活動を「自分自身の研究業績にしよう」という意識が前面に出て来たということである。そのことを感じてしまうと、そう言えばかなり以前から「その傾向は出て来ていたな」と思えるのではあるが、それをモロに感じてしまうと私などは何かしら「残念で、ガッカリ」してしまう。「良い授業」をするのは、自分の張り合いだし、学生が良く解って熱心に勉強してくれるなら、“こんな嬉しいことはない”というスタンスでやって来たからである(これが素直な気持ちだった)。でも、でも……
「結局、サービス精神の違いなのですね」。教育は、サービス精神の発露。利他心の現れ。現在の業績主義の環境が解らないわけではないけれど、授業にエネルギーを投入するのならば、研究業績に結び付けられないかと考えてしまう。それは、ある種必然性のものかもしれないけれど、“利他的気持ちで、解り易い授業をして勉強好きの学生を育てたいな”と言った(牧歌的な)願望を抱けたら、現在の大学教員ももっと楽しいのではないかと思われるのであるが、……
振り返って、私達(第二期と思っている)を指導してくださったFD第一期の先生方は「研究業績も高く、且つ、学生の学習レベルを上げたいと真剣だった」ように思う。言わば大学教員の模範になる方々であったように思われる。世間一般、ますます人間的スケールの縮小は、避けがたいことかもしれないけれど、大学教員はもうちょっと意識を切り替えて欲しいものだ。もうちょっと「利他的に、サービス精神を出すように」。短時日でそうなってくれとは言いません。時間が掛かってもいいから、“なるべく学生に対してサービス精神を発揮するように努めていただけたらよいのである”。そのちょっとした心掛けが、長い時間持続すると「明らかにその先生は人間的に成長される」のである。人間的スケールが大きく成られるに違いないのである。
「組織は、リーダーの器以上には成れない」という格言があるが、昨今しみじみと本当だなぁと思わせられている。政治主導と言葉で標榜しても、優秀な官僚を使いこなせないのである。器の違いである。政治家の人間的スケールが縮みすぎて、“一目置かれ、尊敬される”ような人が出なくなってしまったのである。「帝王学」を学ぶという環境が廃れてしまったためだろうか。自己啓発セミナーは花盛りなのだけれど、どうも「器を大きくする」帝王学の講座は無くなってしまったのではなかろうか。本来なら、大学院の講座として当然有ってしかるべきものなのだが、もう長くその機能は働いていないように思われる。こんな部分に関しても、大学改革の影響が有って欲しいところだが、個人次元の「授業改善」活動でさえなかなか成果を上げられなくなってきている訳で、大学全体の改善運動としてのFD(教育改善)をより効果的に推進するには、リーダーに相当大きな器をしておられる方を得なければならない。そこを間違うとFDは間違いなく形骸化するだけで本来の意味は失うだろう。
まさに今、全国に500近い大学が存在しながら、日本は国難に沈みつつある。東日本大震災にあえぎ、70円台の円高と一層の財政赤字に苦しみ続けるしかないのだろうか。この現実を如何に切り抜けるか、そのような大きなビジョンが出せる人材をキチンと排出できるような大学に成らねばならないのだが。
先ずは、FDをリードしていってくださっている方々に、利他心の発揮と器を大きくする地道な努力を重ねていただくことをお願いしたい。
「サンデル先生の本」がバカ売れしているようです。NHKが授業を中継したし、You Tubeの動画でも放映されたので、FDに関心を持たれている先生方の多くは、既に研究済みのことと拝察いたします。そして、今どき日本では、ハーバード大学の看板教授の授業を教師以外の人も含めて「大勉強している」ようなのであります。真面目な方向性の取り組みで、まことに結構なことです。ただ、あの先生のような授業を日本の並クラスの教室で実施しようと思えば、相当カルチャーショックものであって、なかなか学生は乗ってこないものと思われます。 サンデル先生の授業は、「自分自身の意見考え方をきちんと育てている基本的学識の上に立って、且つ、自己主張性の強い文化土壌」が無くてはなかなか盛り上がらないタイプの授業形態です。(私の「授業の5段階表」で言えば、「考えさせる授業の一問一答型を中心に、一部一問多答型」の授業と分類できる)。私は英語が出来ないものですから、先生の英語でのニュアンスは解りませんけれど、“議論を戦わせるテーマ設定”は秀逸だと考えられます。ただ、結論を出させるテーマ設定でやれば、授業の盛り上がりはいささか予測不可能なところが出て来そうです。結論無しの、両論併記型というテーマ設定が先生の授業の売りのようです。
この時期に大学教員だけでなくサンデル先生やNHKより独立された池上彰さんの「わかりやすいニュース解説」が大人気を博したのは、偶然とも思えません。ナゼなら、現在「真面目なテーマに社会人講座が静かなブーム」だそうです。さもありなんです。若い人達も、中年以上の大人達も、「考える勉強を真剣に学んだ経験が少ない」ので、勉強の面白さが解っていなかったためではないでしょうか。この現象の火付け役の一端を池上彰さんが担われたように思われます。「知らなくても生活に不自由しない環境」で過ごし、ジャーナリズムも「上辺だけの報道で良しとしてきた姿勢」も加味して、“地に着いた知恵として”学識を育て得たという自覚を持てない日本人が増えてしまっていたのです。そこに、「ニュースを理解するためには、背後に含まれている社会状況や文化状況を頭に入れておく必要があることに、今さらながら気が付いた」のがブームの原因ということではないのでしょうか。
それらの現象を含めて、我々、大学教育関係者は「反省的に襟を正さねばならないのではありませんか」、これまでの大学教育の如何に不十分であったことについて。極々先端的研究を進めた大学を例外に「殆どの大学では、学識を高めてきちんと卒業生を送り出してきたでしょうか」。生産技術の開発では、それなりに成果を出してきて、たくさんの特許を取り、高品質の機械・製品を世界に販売してきたわけですけれど、「卒業生の人間としての学識・人格を高め得たか?」と聞かれれば、自信を持って高めて卒業させたと言えないのではないでしょうか。それが、日本の大学の世界ランクでの低い位置付けの根本的原因なのではないでしょうか。そして、「大学等高等教育機関の学びの中で、人生を、生活を、深く考えてこなかった学習の不足感」が、今「ものの見方・考え方」を再確認したい学習熱に成っているように思えて仕方がないのです。折しも、東日本大震災にみまわれ、国民の一人ひとりに、これからの生き方が問われている最中「今一度、人生を生きている自分の足元を確かめようと思うのは当然と言えば、当然のことであるわけです」。
そして、この時期に「FDの熱」は冷めようとしているように感じられます。笛吹けど踊らず。周りも疲れてきたのです。約10年前頃から5年間ほどは「大学倒産時代の到来だ」という触れ込みで、「大学の経営を立て直すために、FDをして行かねばならない」とかなりな盛り上がりを見せたFD活動でしたが、遂にここに来て熱は下火に成ってきました。大学の倒産旋風が思ったより吹き荒れなかったと思われたのか(まだまだ旋風の本番はこれからと思われますが)、この程度では何とか生き残れると判断されたためなのですか、事情は色々あるでしょうが、FD活動の熱が冷めたのはほぼほぼ間違いないように見受けられます。「ナゼなんでしょう?」。
「全入時代の到来」で入学生の知的レベルの低下に的確に打つ手がないこと。挙げ句の果てに「ポスト・ドクター、マスター問題の深刻化」。世の中不況で、採用枠が狭まる中、ポスドク問題が厳しいです。ドクター、マスターの称号の安売りと称号のインフレで「本当に実力があるのかどうか保証の限りでない大学院の卒業生が増えてしまった」。日本の場合のポスドク問題で困るのは、「研究力を背景に起業するという選択肢を選ぶ人があまりにも少なく、また起業を支援する社会制度も未発達なことです」。
これらのことも、「広く考えれば、みんな、大学教育のダメさの象徴でもあるのです」。大学関係者は、そこのところをどう理解しているのでしょう。「予算を付けてくれるから、マスターを募集しよう。ドクターを入れようと動いてきたではありませんか」。競争倍率の高い研究室は例外になるところもありますが、総じて「能力不足・知識不足の学生を承知で大学院生として迎え入れたではありませんか」。その辺の後始末を根本的にするつもりで「大学改革」を進めなければならないのではないのでしょうか。文科省は20年前から無責任なお役所になっていますよ。いつまでも文科省に責任を押し付けていても問題解決になりませんよ。本当のFD活動は、「大学教育のトータルな質を高める」。そこの所が基本的原点なのです。本当ならば、「今こそ、教育の原点を見据えて、じっくりと腰を据えて“少しでも良い教育を学習を提供して行く”覚悟を固めるべき時」なのですが、多くの大学で、FD活動が空回りか、回転さえ止まりそうですね。まことに残念です。
ますます過酷な状況が近付いてくるようです。でも、もうエネルギーが切れてしまったんですね。仕方がない、台風に遭遇してから、何とか切り抜ける方法を考えましょう。ピンチが来ればまた真剣に取り組むチャンスもくるでしょう。人間というものは、余程追い込まれないと目を覚まさない生き物でもあるわけですから。