「君に、授業評価する資格が有るかね」
また学生による授業評価の季節がやって来た。多くの大学では、まもなく22年度前期の授業終了である。そして、終了に近付いたところで、習慣化してきた「学生による授業評価アンケート」が配られ、学生による「授業者の授業の出来不出来が評価される」のである。私も今日1科目アンケートを配り、回収した。
私は、長年授業研究を研究対象としてきたので、学生が授業評価をするのはとても良いことのように思え、当初この流れは必要・必然なものと考えて歓迎していた。しかし、毎年繰り返される学生による授業評価を受けて、その結果のフィードバックを受けて、さしたるプラスが無いために、この評価活動に割くエネルギーとコストを考えると「惰性的にしている授業評価」は、そろそろ止めにしないといけないのではないかと思い出しているところである。(例外的にFDをうまく効果的に実施している大学も少数出て来ていて、同じ続けるのなら上手に運用している大学からノウハウを学び、導入させて貰うべきだと思われる)。
私は、授業評価アンケート用紙を配る前に一言コメントした。
「授業を熱心に聞いて解らないのならば、教師である私の責任だ。解るように教えなければならない努力が足りなかったからだ」。“でもね、授業を真面目に聞いていない人やよく休んでいた人は、この授業評価に答える資格がないと私は考えているよ”と。これに呼応してくれたのかどうか解らないが、44人中一人がアンケート用紙を出さなかった。大概習慣のようにみんな出すから、一人は出すのを遠慮したのだと思っている。彼は訴えたことをキチンと聞き届け、誠実に対応してくれたように感じて、「すがすがしい気持ちの良い青年であると内心感心した」。
このコメント、先生方が読まれたなら“当たり前”のことでしょう。だって、半分以上の学生が解ったと反応している時に、尚、「難しかった・解らなかった」と臆面もなく書いてくる学生が少数居るのだから。その人数は、授業中寝ていたり集中していない学生数とほぼ一致するのだから、こちら側は「証拠があるのである」。(私は、“授業の苦情改善法”という授業改善の方法を提唱していて、毎時間出席表に授業の感想・解らなかったところを書いて貰うようにしているから、これらのことが言い得るのである)。短時間寝てしまうのは睡魔に襲われて寝た経験が自分にもあるので、大目に見るのであるが、睡魔に抵抗する様子もなく「解る努力をしないで寝てしまう学生には、閉口する」。寝ていて周囲に迷惑を掛けない場合は、大目に見るしかないからだ。でも、そんな学生の感想文は、難しい、解らないとなっている。人数的に確かめられるのだ。
高い授業料払って、大学に勉強に来てるのなら「解ろうと思って、その気で授業を聞けば、所々は解るはずなのだが、それをしないし、拒否している」。そういう学生にどんなアドバイスをしてやると良いのだろう。教師としては、誠に困ってしまうシーンである。
評価側の学生の事情を書けば以上のような例があり、何とも救いがたい学生から熱心で真面目な学生まで、努力の程度でも様々な学生が様々に答えるわけだが、他方、学生サイドでない問題点もある。
それは、アンケート質問紙の問い掛けにかなり重大な欠陥があるのではないかと思わせられるからである。例えば、「アナタ=学生は、この授業にどの程度出席しましたか」という質問がある。そして、50%以上とか、色々な%が示され、相当する答を書き入れることになっている。この質問に関する回答は、抜群によい値になる。「自分は頑張っている」と思いたいし、事実頑張っているのだろうからである。でも、ナゼこの質問が有るのだろう。こういう質問紙を使っておられる大学は、是非質問項目を授業評価するための妥当な質問であるように考慮して欲しい。
早い話、この質問に授業評価としての意味が見出せるものでしょうか。昨今の学生は、授業を真面目に聞く気がなくても、熱心に出席する傾向がある。出席点というものを当てにしている精だろうか。しかし、「出席」と「授業を熱心に聞く」との間には何の関係もないと言わざるを得ない。授業評価アンケートの質問としては、「アナタは授業を熱心に受けていますか」でないといけないのではないか。教室内に座ってはいるが、寝ていたり、携帯電話で遊んでいたり、漫画やスケジュール帳などを見ていたりしているなら、授業を聞いているとは言い難いではないか。その他、的はずれな質問が多々あるように見受けられる。そういう質問は、そもそも不要なのである。全質問項目について、見直していただけると幸いだ。
質問項目に関して、私は研究発表と論文を書いたことがある。その骨子は、「授業評価アンケートの質問は、次の3つで十分だ」。①その授業を受けて、最終的に授業が理解出来たかどうか。②アナタは、その授業を熱心に受けたかどうか。③教師は、学生に解らせる努力を十分払っていたかどうか。以上の3点がチェック出来たら良いのではないかと思えるからである。(京都大学高等教育研究開発推進センター、第13回大学教育研究フォーラム発表論文集P66-7,2007年)
http://www.highedu.kyoto-u.ac.jp/edunet/archive_pdf/07.p066.kusa.pdf
この3項目の質問で良いのではないですか。どう思われますか。多くの大学の質問紙は、20問程度の質問が並んでいるが、あたかもA4用紙の広さに合わせるように多数の質問を並べているかのような印象である。この辺で「本当に授業評価に関する質問として妥当かどうか」今一度吟味したいものである。そして、不要な質問を捨てて、学生に、教師に、注意を喚起する質問項目だけに絞れば、“何のためにその質問が設定されているか答えるのに一瞬戸惑うような難しい質問が削除される”と同時に、質問紙がスッキリしたものになるのではないだろうか。
授業というものは、授業者と学習者の間に、適切な緊張関係が無ければいけない。ボンヤリ聞いていると解らなくなってしまうのは、当然なことである。そして、解らないところで、質問したくなってまた当然なのである。黒板に書かないことでも「大事な話はメモしなければならない」。こんなのは当たり前過ぎるくらい当たり前の話であるのだが、昨今の学生には当たり前ではないから困るのである。“話の内容をメモできる学生”は、ウソみたいに少ない。ノートの取り方から注意し、促さないと板書以外のメモをする文化を持ち得ていないので、いやはや困ってしまうのである。
投稿日 2010.7.14