サンデル先生の本バカ売れでも、FDの熱は冷めたか

「サンデル先生の本」がバカ売れしているようです。NHKが授業を中継したし、You Tubeの動画でも放映されたので、FDに関心を持たれている先生方の多くは、既に研究済みのことと拝察いたします。そして、今どき日本では、ハーバード大学の看板教授の授業を教師以外の人も含めて「大勉強している」ようなのであります。真面目な方向性の取り組みで、まことに結構なことです。ただ、あの先生のような授業を日本の並クラスの教室で実施しようと思えば、相当カルチャーショックものであって、なかなか学生は乗ってこないものと思われます。 サンデル先生の授業は、「自分自身の意見考え方をきちんと育てている基本的学識の上に立って、且つ、自己主張性の強い文化土壌」が無くてはなかなか盛り上がらないタイプの授業形態です。(私の「授業の5段階表」で言えば、「考えさせる授業の一問一答型を中心に、一部一問多答型」の授業と分類できる)。私は英語が出来ないものですから、先生の英語でのニュアンスは解りませんけれど、“議論を戦わせるテーマ設定”は秀逸だと考えられます。ただ、結論を出させるテーマ設定でやれば、授業の盛り上がりはいささか予測不可能なところが出て来そうです。結論無しの、両論併記型というテーマ設定が先生の授業の売りのようです。

この時期に大学教員だけでなくサンデル先生やNHKより独立された池上彰さんの「わかりやすいニュース解説」が大人気を博したのは、偶然とも思えません。ナゼなら、現在「真面目なテーマに社会人講座が静かなブーム」だそうです。さもありなんです。若い人達も、中年以上の大人達も、「考える勉強を真剣に学んだ経験が少ない」ので、勉強の面白さが解っていなかったためではないでしょうか。この現象の火付け役の一端を池上彰さんが担われたように思われます。「知らなくても生活に不自由しない環境」で過ごし、ジャーナリズムも「上辺だけの報道で良しとしてきた姿勢」も加味して、“地に着いた知恵として”学識を育て得たという自覚を持てない日本人が増えてしまっていたのです。そこに、「ニュースを理解するためには、背後に含まれている社会状況や文化状況を頭に入れておく必要があることに、今さらながら気が付いた」のがブームの原因ということではないのでしょうか。

それらの現象を含めて、我々、大学教育関係者は「反省的に襟を正さねばならないのではありませんか」、これまでの大学教育の如何に不十分であったことについて。極々先端的研究を進めた大学を例外に「殆どの大学では、学識を高めてきちんと卒業生を送り出してきたでしょうか」。生産技術の開発では、それなりに成果を出してきて、たくさんの特許を取り、高品質の機械・製品を世界に販売してきたわけですけれど、「卒業生の人間としての学識・人格を高め得たか?」と聞かれれば、自信を持って高めて卒業させたと言えないのではないでしょうか。それが、日本の大学の世界ランクでの低い位置付けの根本的原因なのではないでしょうか。そして、「大学等高等教育機関の学びの中で、人生を、生活を、深く考えてこなかった学習の不足感」が、今「ものの見方・考え方」を再確認したい学習熱に成っているように思えて仕方がないのです。折しも、東日本大震災にみまわれ、国民の一人ひとりに、これからの生き方が問われている最中「今一度、人生を生きている自分の足元を確かめようと思うのは当然と言えば、当然のことであるわけです」。

そして、この時期に「FDの熱」は冷めようとしているように感じられます。笛吹けど踊らず。周りも疲れてきたのです。約10年前頃から5年間ほどは「大学倒産時代の到来だ」という触れ込みで、「大学の経営を立て直すために、FDをして行かねばならない」とかなりな盛り上がりを見せたFD活動でしたが、遂にここに来て熱は下火に成ってきました。大学の倒産旋風が思ったより吹き荒れなかったと思われたのか(まだまだ旋風の本番はこれからと思われますが)、この程度では何とか生き残れると判断されたためなのですか、事情は色々あるでしょうが、FD活動の熱が冷めたのはほぼほぼ間違いないように見受けられます。「ナゼなんでしょう?」。

「全入時代の到来」で入学生の知的レベルの低下に的確に打つ手がないこと。挙げ句の果てに「ポスト・ドクター、マスター問題の深刻化」。世の中不況で、採用枠が狭まる中、ポスドク問題が厳しいです。ドクター、マスターの称号の安売りと称号のインフレで「本当に実力があるのかどうか保証の限りでない大学院の卒業生が増えてしまった」。日本の場合のポスドク問題で困るのは、「研究力を背景に起業するという選択肢を選ぶ人があまりにも少なく、また起業を支援する社会制度も未発達なことです」。

これらのことも、「広く考えれば、みんな、大学教育のダメさの象徴でもあるのです」。大学関係者は、そこのところをどう理解しているのでしょう。「予算を付けてくれるから、マスターを募集しよう。ドクターを入れようと動いてきたではありませんか」。競争倍率の高い研究室は例外になるところもありますが、総じて「能力不足・知識不足の学生を承知で大学院生として迎え入れたではありませんか」。その辺の後始末を根本的にするつもりで「大学改革」を進めなければならないのではないのでしょうか。文科省は20年前から無責任なお役所になっていますよ。いつまでも文科省に責任を押し付けていても問題解決になりませんよ。本当のFD活動は、「大学教育のトータルな質を高める」。そこの所が基本的原点なのです。本当ならば、「今こそ、教育の原点を見据えて、じっくりと腰を据えて“少しでも良い教育を学習を提供して行く”覚悟を固めるべき時」なのですが、多くの大学で、FD活動が空回りか、回転さえ止まりそうですね。まことに残念です。

ますます過酷な状況が近付いてくるようです。でも、もうエネルギーが切れてしまったんですね。仕方がない、台風に遭遇してから、何とか切り抜ける方法を考えましょう。ピンチが来ればまた真剣に取り組むチャンスもくるでしょう。人間というものは、余程追い込まれないと目を覚まさない生き物でもあるわけですから。

投稿日 2011.6.8

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