米国の51番目の州なり、属国なりと言われた日本だが、首相自ら積極的に国を売るような政治が、ようやく庶民の視野に入ってきて、すんでの所で民主党の政治に切り替わった。取り敢えずは、めでたいことだと思われる。叫ぶことと、することが180度違うことをやられ続けたなら、自民党にも愛想が尽きるというものだ。ここで、政治の流れが変わらなければ、折からの強欲資本主義からの不況の中で、日本の国は立ち行かなくなるのは目に見えている。
八ツ場ダムを完成させるか、ここで工事を止めてしまうかが、にわかにクローズアップされてきたが、このダム工事の帰趨が決定的なものではない。この現場が「象徴的である」だけである。既に4〜5千億円注ぎ込んで50年以上にわたって議論があって、後2千億円で完成するなら、「ムダを承知で工事続行もやむなし」かもしれない。しかし、この政権交代で、税金の使い方の流れは変えないといけない時に来ていると誰しも思っているのではないだろうか。
巨大土木工事と箱物を作ることは、極例外を除いて終わりにしないといけないと思われる。その最も当たり前な論拠は、“もう十分それらは作ってきた”からだ。本当に必要なものは少数まだ残っているが、「役人根性の“前例主義”で、同じ発想で作り続けた巨大土木工事と箱物」は、もうこれ以上つくる必要もないだろう。
それよりも今後は、物に対しては、少額の予算で多数の小型施設(例えば、保育所)を作ることや、未利用で放置されていて、国民の役に立っていない施設を如何に役立たせるかのソフトウェアの開発とそれらの充実策である。そこで、前者の問題について少し論じてみたい。
ちょっと前(9月中)のニュースで「待機乳幼児の数が5千人以上増えていた」のには驚いた。当然減っていると思っていたのに、大幅に増加していたからである。私の前職は、保育士・幼稚園教諭の養成に従事していたので、保育所や幼稚園のことには継続的に興味を持って眺めてきた。だから、このニュースに意外な感じを持って注目したのである。厚生労働省は、何をしていたのかといぶかりながら。なぜなら、厚生労働省は、数年前から「アパート一軒を借りて幼児教育の資格保有者が所長となって運営する小規模な「託児施設」を公認して、開設に当たって予算を出すことろまで」踏み込んだ対策を打ちだしていたからである。その対策が効果を上げていれば、“待機乳幼児の数は減少しているものと思っていた”のに、あにはからんや大幅に増加しいてたのである。
それで厚生労働省の本音がが見えてしまった。予算は付けても、本気で保育所等を増設する気はなかったのではないかと(小規模な託児施設が何カ所増えたか知りたいところ)。この辺が昨今の役人の働き方の典型だ、本当は国民生活に無関心で、省益や自分本人に関わる利害を優先して働いていることが、嫌というほど証明されてしまう(これも政権交代を呼び寄せた重大な一つの原因と思われる。公務員改革を是非とも達成して貰いたい)。
それから、この問題は「これからの国家予算の使い方の良いサンプルになる」。それは、「少額の予算で、方々に施設を作る」典型例だからである。大雑把に言って、地価の安いところでは、1個所5千万円くらいから、都市部の地価の高いところで、2億円くらいで「簡易型の保育所」が作れると思われる。都市部で作ったとして「千個所作って、最大2千億円」。大型公共工事の規模と同程度である。最新の待機乳幼児数は、2.6万人と報じられていたので、ほぼ千個所で収容可能と思われる。この予算が、2千億円である。これだけの予算を執行すれば、一、二年で確実に待機乳幼児問題が解消できるのである。本気になったらすぐに出来る話である。そして、地方にも予算が落ちるはずなのである。民主党になった暁には、是非とも実行してもらいたい施策の一つである。これはまた、
「不可欠の少子化対策」でもあるからである。
これが、自民党の御代に実行出来なかった。ここに、日本の政治・行政機構の「疲弊」が現れていると言える。
まず「大型公共工事」ありき。「大型公共工事」→工事の発注→族議員の存在(談合と裏での政治献金)→地方の建設会社が下請けで入り地方の経済を少し潤す→30年も繰り返され、今や必要性の怪しい工事案件が残った→八ツ場ダムに帰着する。
巨額の金が動くと、分配の事務が少なく、大手の建設会社も政治家も助かるのである。早い話、効率が良いのである。この図式で、前例として何十年も繰り返した。
この流れを変える
「1個所、5千万円から2億円で、地域に適合する保育所等を千個所作る」。厚生労働省のお役人がコミットしたければ、大いに頑張って千個所の現場を監督すればよい。それは、今時素晴らしい働きになるだろう(出張旅費がかさもうとも美談だから大目に見よう)。同時に、地方公共団体は負けずに頑張らねばならない。全国一律の規格化された建物を建てる必要はないわけで、地域にふさわしい建物を最適の立地で考えなければならない。地方の建設会社も、自らの知恵を絞り創造的に設計図を引かねばならない。それは同時に、創造的で心弾む仕事になると思われる。素晴らしいことばかりでないか。
困るのは、小口でも献金をして欲しい政治家さんだろう。国会議員にあっては、「税金から政党への交付金が出ているのでそれを有効に使っていただくのがよいように思われる」。地方議員さんも、つまらぬ欲は出さないのがよい。かくして、待機乳幼児も居なくなり、八方、めでたしメデタシとなってくれればよいのだが。
衆議院選挙で民主党が政策の目玉として「高速道路の無料化」をぶち上げている。大局的に見れば、「建設費の償還はもう済んでいるから」という理由付けも解らないではないが、「週末日曜祝日千円化」だけでも、経済原則から言えば「ちょっと無茶」である。道路会社に別途税金から減額分の保証として支払われるという話も聞こえるが、現在の不透明な政治システムの中では、当然有り得る密約の結果として実現しているのではないか。そうとなれば、「高速料金が安くなって得をしている」とは思っていられなくなってくる。結局、高い高速料金を支払わされているのかも知れない。何ともスツキリしない話だ。
千円の裏のカラクリはこの辺りで置くとして、民主党の高速料金無料化の選挙公約は、今の時点ではいただけない。財源不足を言いつつも、只の「人気取りのバラマキ政策」でしかないからだ。さらに現実問題として、タダになって「無料の道を走っていた車の多く」か高速道路に入ってきたら、通行量がパンクして渋滞が増え、本来のインフラストラクチャーとしての機能がマヒしないとも限らない。コストが掛かるために一般道と高速道の棲み分けが出来ているのだ。棲み分けていて良いのではないか。本当に償還が済んでいるのなら、合理的な根拠の基で、道路会社の制度改革をするなり、料金を下げるなりすればよい。ただ、何も無料にすることはない。無料化すれば、ETC等の投資がムダになるし、再度有料化することは、事実上不可能では無かろうか。それなりの経済合理性で、仕方なく払っている高速道路料金を別に活用する知恵を出すのが賢い政治では無かろうか。国家財政は膨大な赤字なのだから。
お金のバラマキは、民主党だけではない。自民党も公明党も、選挙になれば金を撒けばよいと考えるようだ。何とも国民を程度低く見ているものだ。そのことに関して、「無料」に持つ印象を考えておきたい。2〜30年前までは、無料に関して、“タダほど高いものはない”という諺がしばしば言われ、且つ、真実味を持っていた。事実その頃まで、「タダでしてくれることには、多少とも警戒したものである」。ところがその後、東南アジアの人達が、日本人を「エコノミック・アニマル」と蔑んで呼ぶようになった辺りから、日本人にも「お金のエサ」が有効になり、「無料だよ」と言われると、そのチャンスを逃がせば損をするような感覚になれてきた。そして、浅ましくも「無料、歓迎」の世相を創り出してきた。これは、途上国でのビジネスでワイロが横行した情況と日本の所得水準の向上と買春ツアーが盛んだったこと等が、関連するのであろう。残念ながら、その頃から、壮年以降の日本人の価値観は「お金第一」に成ってきたのであろう。「お金を持っていることがステイタス」と考えるようになったのでありましょう。その後バブルでさらにお金持ちになると、コスト意識も飛び散って、「金満家」感覚になったのではないだろうか。
そうは言っても、コスト意識は、経済学的に絶対に大事な考え方になのだ。
「何をするにもコストが掛かる」。これが、経済学の大原則である。家の回りをぐるりと散歩するだけでも、厳密に考えればタダでは実行できないのである。エネルギーを使うし、服も履き物も減耗するのである。時間で働いているとすれば、散歩の時間も間違いなく人件費として支払われる。このように考えれば、本当は寝ているだけでもコストが掛かるのである。こんな当たり前のことが、国民の大多数に正確に理解されていないのが、現在の日本の情況である。即ち、「金金と思っている割には、経済学の知識には乏しい」のである。コスト削減に厳しく取り組んでいる職場にいる人以外では、国民のコスト意識は低調なままだ。学校で教えないし、公立学校では先生方にコスト意識が有るのか無いのか解らないくらいである。そんな環境で学ぶ多くの子ども達にコスト意識が育つはずもない。役所が・公務員が、「税金は我々の金だ。経済原則などクソ食らえだ」と内心思っているような文化風土があるため、国民の津々浦々にまでコスト意識が浸透しないままで推移してきたのである。
「無料化」を政策に掲げるのは、二重の意味で「非教育的」である。一つは、“タダほどありがたい”と考える風潮を助長する。もう一つは、“コスト意識を持つチャンスを潰してしまう”ことである。国や役所は、「何でもタダでしてくれたらよいのに」という感覚が常識に成ってしまったら目も当てられない。……。
そうは言っても、その感覚は既に国民の間に色濃く出来上がっている。お金にまつわることをきちんと教えないからだ。政府が国民に金をばらまくのにどうしているか。日本銀行がお金を印刷すれば済む問題ではないのである。「政府がくれる金は、政府の役人が働いて稼いでくれた金ではないのである」。「国債という借金の証文を書いて借金した金」でバラマイテいるだけで、貰った金は、結局借金で、いずれ誰かが返さねばならない金なのだ。当座の金のために、サラ金で借金しているのと、正味全く同じなのである。まさか「誰か、本当は自分が、その費用を結局は払うんだ」とは、殆ど思っていないのでは無かろうか。
ああ、「国民を愚民化する政策だ」。そのことを政治家共も国民もハッキリと意識して頂戴よ。
ご案内を頂いたので、09.5.29日、福井県学習コミュニティ推進協議会(略称:F−LECCS)の第二回シンポジュームに参加させていただきました。そこで、見出しの言葉が紹介されました。Power Pointの画面で大写しになりました。咄嗟にメモしきれなくて、画面を戻していただいて写しました。(その後、小田先生にネツトで紹介してよろしいですかとお断りをしまして、ご了解の上で書いています。念のため)
最初、ごく短時間画面が写されたのですが、文字がパッと目に飛び込んで来たときに、この表現とても面白い。カツコイイと直感しました。私にとって、FDという得体の知れない言葉に「何か良いイメージ付けが出来ないものか」といつも頭の片隅で思っていたものですから、【これ、日本のFDという言葉の定義付けにちょうどいい】と感じたのでした。それは、小田先生がしっかりとお考え下さった後の産物だからでしょう。
これ以前のFDに対する私のコメントは、FDの実際は、「個人の営み」と「組織での営み」が両方ありますよ。それらを区別しないで一緒くたにして(混ぜてしまって)FDというものを議論するならば、「FDは、ボトムアップで行かないとダメ」とか反対に「FDは、トップダウンでいかないと成功しない」とかの話が出て錯綜し、「議論のための議論」をしているような雰囲気さえ醸し出されるのが避けられませんよというものでした。それは、現在の「FD」という用語の使い方では、「FD」という日本語の名詞が出来たような感じで、内容の規定が曖昧なままの“雰囲気用語?”になっているように思われました。この用語法の現状を何とかしないとダメだと思っていたところに、今般福井でこの言葉に接したわけです。
日本語でないFDが、あたかも日本語の特定な名詞のように使われてきている現状は、否定すべくも無く存在しているわけで、そして「FD」という言葉が、「今後の日本の大学の運営・経営に大きな影響を与えるであろうという予測の基で」、「FD」をもっと積極的な面で受け止めて貰える言葉に「進化」させないと「FD活動」が広がらないと危惧されるわけです。それでなくても、FDに関心を持っていただきたい「まだ無関心な先生方」がたくさん居られる現状を如何に打破するかが喫緊の課題なわけです。そのためにも、どう見ても英語の「FD」という用語で「大学教育のレベルアップ」を象徴させようとするには、日本文化の中で違和感が残るのは如何ともできない事実であります。もしも、このままFDという言葉を使い続けるのであれば、「最低限、意味のハッキリしない現状を改める必要はある」と思われるわけです。その時、暫定的にでも考慮すべきは、「日本語としての文脈で語られる“FD”という用語の実際的・現実的な定義付けが必要になる」と思うのであります。この時点で、先程の小田先生の「米国の文化にワンクッションを置いたような定義」がそれなりに意味があるのではないかと直感したわけです。
大阪へ帰る車中でも、あれこれとこの一文を考え続けました。そして、小田先生のお考えが、しみじみと迫ってきまして、「これはいい」と再度納得しました。現在の日本のFD活動の現状を踏まえて、尚かつ、広い視野で考えたならば、“日本語のFD”という言葉に対する「当面の意味付けにふさわしいように」思われるのでした。“日本語のFD”=「トータルな大学教育のレベルアップ」⇒それをカッコヨク言い換えて【校風を創造し、具現化する装置である】とするアイデアなわけです。これで、「FD」のイメージを少し変えていただいて、今迄FDに躊躇されていた先生方に腰を上げていただけるようにならないものでしょうかね。“我が大学の校風を誇らしいものに具体的に作り出していく活動なんだ”と思っていただけると幸いではないでしょうか。今の訳の解らないFDという言葉より「余程、親しみと現実感を持ってもらえる」ように思うのですが。さらにだめ押ししておきますと、「大学教育のレベルアップ」という表現では、何か人ごとのようだし情緒がないでしょう。「校風を創る」なんて表現にすると、なんだかロマンが漂ってくるのではないですか。本当のところ、FD活動は、ロマンを持って進める活動に違いないと思うのです。だったら、ロマンを感じさせないとね。
FDは、最終的に個人の授業改善活動として完結するのでしょうが、その個々人は「教員組織の各構成員」であり、“組織的なFD活動を前提とするならば”、【個人の授業改善活動は、最終的に組織的な方向性を内包するわけで】、“それは正しく、誇らしい校風を創造する活動として結実するものでしょう”。時の経過と共に、また違った定義が将来提案されてくることもあるでしょうが、私個人は、現時点では小田先生の提示されたこの「FDの定義に飛び乗りたいですね」。なぜなら、最後の畳み込みの工夫がまた凄いからです。それは、観念的な思いだけのFDでは、ダメだよと畳み込まれているからです。【目に見える形での成果が実感できてこそ】という但し書きが付いてくるのですから、私にはたまりませんね。なぜかと言えば、それは前回のコメントに関係してきます。前回私は、「FDの効果の研究について」書きましたが、私自身の体験から言いますと、「自分の授業が進化・向上してくると、学生とのやり取りがどんどん変わってくるのです」。その効果は、目に見えますし、実感できるのです。それを数値で出そうという試みは有ってもいいでしょうが、そんな顕著な変化を微妙な数字に置き換えねばならないものなのでしょうかねぇ。
但し、この変化は、そう短期的に出るものじゃないですよ。それ相当の研鑽を積んでいって数年経てば、「目に見えて変容しているもの」です。正味、その変容に自分自身で気付かない方がおかしいでしょうね。即ち、「有効なFD活動」を続けていけば、「ある種顕著な変容が起きてくる」のが予想されます。個人の授業として、学部や大学全体に醸し出す雰囲気にも顕著に出て来ます。真に歴史のある大学の良さとは、こういったものの集積にあるのだと思うのです。まさに「校風として具現化する」のです。具現化してこそ、ホンマものです。理屈をこねるだけでは、変化は出てこないでしょうね。ここに、「具現化」と言葉を入れられたのが、念には念を入れられたことを物語っています。
本日は、福井で勉強させていただいたことをアップすると同時に、「現在それらしい定義無しで使われている“FD”なる用語に関して、当面の日本語的定義を小田先生ご提案の【FDは、校風を創造し、具現化する装置である】と定義してみては如何でしょうと」ネットを通じて問題提起させていただいたことといたします。
(有)日下教育研究所 所長 日下 和信
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