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一月ほど前、ひょんなことで女の子の「釣書」を預かることになりました。身近に30代後半の未婚の男性が二人いますので、その一人に見て貰うべくお預かりしたのですが、あいにく「中味を見て貰うこともなく」お断りで返されてきました。それは、縁が無かったと言うことで、仕方なく一件落着と成らざるを得なかったのではありますが、その男の子には、「早くよいお嫁さんが決まって欲しいなぁ」とかねがね願っていますので、奇妙なすれ違いに、本心はとても残念に思っているのです。それで、今回はこんな一文になりました。

その釣書は、これまたひょんな事に、身内でしている勉強会のメンバーの一人が、釣書の話の序でで独身であることが判明し、「良い運命を引き寄せたかも知れない」とがやがやいいながら、急遽別の彼に預けられたのでありました。

そんな顛末を経ながら、“ずしりと重く”感じることは、「ここ20年くらい、シッカリした男の子がめっきり少なくなった」という実感です。なんとなくではないのです。正味の実感です。女の子は、シッカリしているのですが、男の子がサッパリだめなのです。それが、「今時の流行語になってる“草食系の男子”に対して“肉食系の女子”ということ」なのでしょうか。うまく世相を捉えていると言えば、言えますね。私にも年頃の娘がいますので、「いいお婿さんを探せるかどうか」本当に気になるところです。

そのような現実に対して、どう対処して問題解決を図ればよいのでしょうか。単純な発想で言えば、対処は二つ。一つは、「なよなよした男の子を鍛え直す」。もう一つは、「男の子の育て方として、6才くらいから後甘やかさない、自分のことは自分でさせる」という対処法しかありません。
ここ20年くらいの子育ての悪い特徴は、「理由の如何を問わず、ケンカをさせない」で来ました。幼稚園や保育園では、親からのクレームを怖れる余り、「相撲はお取り、ケンカはおよし」の諺通り、特に後半に力を入れて、ケンカは殴り合いになる手前で止めるように対処して来たように思います。また相撲も取らさなかったようですが。
その結果、「男の本能」である“腕力による順位付け”さえ出来ないことになりました。男の子の少年時代は、“腕力による順位付け”が必要悪というか、ある種の必要性を持っています。この原理は、比較的高等な動物の本能的「組織論のベース」ではないでしょうか。その順位を認めた時に、「ガキ大将が組織を統率した」のです。そして、ボスは順位を元に、平和な世界として組織を統率する責任さえ持ったわけです。「男の子」は、本来的に、本能的に“ボスになりたがるし、成ればなったで責任が付いて回ること”も覚えたわけです。それが、ケンカはおよしで、順位なしで、さらに平等教育で「順位は否定される」わけで、「みんな対等を叫ぶと余計に統制が取れなくなる」わけです。みんな対等、平等では、原理的にボスが発生する仕組みが無いことになります。その反映で、日本の組織の多くで「実質の伴うボスが不在」なわけです。役人にも政治家にも、ボスになりたい人はたくさん居ますが、それらのボスは、共通的に責任は取りません。それと同様に、昨今の「男の子」は、ボスになろうとしないし、「責任を持ちたくない」のです。

このような背景で「草食系の男の子」が作られてきたのです。気の毒と言えば気の毒だし、「頼りないと言えば、頼りない存在」に成り下がらせられたのです。そうは言っても、永い人間の歴史を考えれば、結婚後夫婦になれば、過半数のカップルで男性が主導権を取り(文明によって役割が逆の場合もありますが)責任を担って生活していくわけで、この期に及んで責任逃れは許されるものではないのが普通です。だから、結婚に際して、「いい男が求められる」訳なのです。俺は、“ボスは嫌だ、責任は取りたくない”というのなら「かかあ天下の家庭を築く」しかないでしょう。でも現実は、うまくしたもので、ボスになりたくない男性は、男勝りの女性もたくさん居て、そんな人と結婚すれば、お互いに双方良しというということで一件落着です。

男勝りの女性と優しい男というカップルが増えているようですが、愛情深い優しい古いタイプの女性は、「やはり、責任感のある・強い男」との結婚を望んでいるようです。この根強い願望のために、「いい男が求められている」のです。そして、探せどもなかなか良き伴侶に巡り会えないので、若い女の子が困っているということになります。

私は、ここで提案します。草食系男子を「頼りがいのある立派な男にする」道場が必要ですと。誰か、このビジネスを展開していただけませんでしょうかね。これは、明らかに「教育ビジネス」です。現在の学校システムが育てきれなかった能力を鍛え直す「教育ビジネス」です。結婚を前提に「どうしたら結婚できるかをアドバイスし、結婚にゴールインさせる」ビジネスは、既に活動しているのですが、そのように目的を絞らずに、“若い男の子をトータルなところで鍛え直すビジネス”が今こそ、本当に必要だと思うのです。ビジネスアイデアをここに公開しますから、誰か真剣に誠実に取り組んでいただくわけにはいかないでしょうか。

また学生による授業評価の季節がやって来た。多くの大学では、まもなく22年度前期の授業終了である。そして、終了に近付いたところで、習慣化してきた「学生による授業評価アンケート」が配られ、学生による「授業者の授業の出来不出来が評価される」のである。私も今日1科目アンケートを配り、回収した。

私は、長年授業研究を研究対象としてきたので、学生が授業評価をするのはとても良いことのように思え、当初この流れは必要・必然なものと考えて歓迎していた。しかし、毎年繰り返される学生による授業評価を受けて、その結果のフィードバックを受けて、さしたるプラスが無いために、この評価活動に割くエネルギーとコストを考えると「惰性的にしている授業評価」は、そろそろ止めにしないといけないのではないかと思い出しているところである。(例外的にFDをうまく効果的に実施している大学も少数出て来ていて、同じ続けるのなら上手に運用している大学からノウハウを学び、導入させて貰うべきだと思われる)。

私は、授業評価アンケート用紙を配る前に一言コメントした。
授業を熱心に聞いて解らないのならば、教師である私の責任だ。解るように教えなければならない努力が足りなかったからだ」。“でもね、授業を真面目に聞いていない人やよく休んでいた人は、この授業評価に答える資格がないと私は考えているよ”と。これに呼応してくれたのかどうか解らないが、44人中一人がアンケート用紙を出さなかった。大概習慣のようにみんな出すから、一人は出すのを遠慮したのだと思っている。彼は訴えたことをキチンと聞き届け、誠実に対応してくれたように感じて、「すがすがしい気持ちの良い青年であると内心感心した」。

このコメント、先生方が読まれたなら“当たり前”のことでしょう。だって、半分以上の学生が解ったと反応している時に、尚、「難しかった・解らなかった」と臆面もなく書いてくる学生が少数居るのだから。その人数は、授業中寝ていたり集中していない学生数とほぼ一致するのだから、こちら側は「証拠があるのである」。(私は、“授業の苦情改善法”という授業改善の方法を提唱していて、毎時間出席表に授業の感想・解らなかったところを書いて貰うようにしているから、これらのことが言い得るのである)。短時間寝てしまうのは睡魔に襲われて寝た経験が自分にもあるので、大目に見るのであるが、睡魔に抵抗する様子もなく「解る努力をしないで寝てしまう学生には、閉口する」。寝ていて周囲に迷惑を掛けない場合は、大目に見るしかないからだ。でも、そんな学生の感想文は、難しい、解らないとなっている。人数的に確かめられるのだ。
高い授業料払って、大学に勉強に来てるのなら「解ろうと思って、その気で授業を聞けば、所々は解るはずなのだが、それをしないし、拒否している」。そういう学生にどんなアドバイスをしてやると良いのだろう。教師としては、誠に困ってしまうシーンである。

評価側の学生の事情を書けば以上のような例があり、何とも救いがたい学生から熱心で真面目な学生まで、努力の程度でも様々な学生が様々に答えるわけだが、他方、学生サイドでない問題点もある。
それは、アンケート質問紙の問い掛けにかなり重大な欠陥があるのではないかと思わせられるからである。例えば、「アナタ=学生は、この授業にどの程度出席しましたか」という質問がある。そして、50%以上とか、色々な%が示され、相当する答を書き入れることになっている。この質問に関する回答は、抜群によい値になる。「自分は頑張っている」と思いたいし、事実頑張っているのだろうからである。でも、ナゼこの質問が有るのだろう。こういう質問紙を使っておられる大学は、是非質問項目を授業評価するための妥当な質問であるように考慮して欲しい。

早い話、この質問に授業評価としての意味が見出せるものでしょうか。昨今の学生は、授業を真面目に聞く気がなくても、熱心に出席する傾向がある。出席点というものを当てにしている精だろうか。しかし、「出席」と「授業を熱心に聞く」との間には何の関係もないと言わざるを得ない。授業評価アンケートの質問としては、「アナタは授業を熱心に受けていますか」でないといけないのではないか。教室内に座ってはいるが、寝ていたり、携帯電話で遊んでいたり、漫画やスケジュール帳などを見ていたりしているなら、授業を聞いているとは言い難いではないか。その他、的はずれな質問が多々あるように見受けられる。そういう質問は、そもそも不要なのである。全質問項目について、見直していただけると幸いだ。

質問項目に関して、私は研究発表と論文を書いたことがある。その骨子は、「授業評価アンケートの質問は、次の3つで十分だ」。①その授業を受けて、最終的に授業が理解出来たかどうか。②アナタは、その授業を熱心に受けたかどうか。③教師は、学生に解らせる努力を十分払っていたかどうか。以上の3点がチェック出来たら良いのではないかと思えるからである。(京都大学高等教育研究開発推進センター、第13回大学教育研究フォーラム発表論文集P66-7,2007年)
http://www.highedu.kyoto-u.ac.jp/edunet/archive_pdf/07.p066.kusa.pdf

この3項目の質問で良いのではないですか。どう思われますか。多くの大学の質問紙は、20問程度の質問が並んでいるが、あたかもA4用紙の広さに合わせるように多数の質問を並べているかのような印象である。この辺で「本当に授業評価に関する質問として妥当かどうか」今一度吟味したいものである。そして、不要な質問を捨てて、学生に、教師に、注意を喚起する質問項目だけに絞れば、“何のためにその質問が設定されているか答えるのに一瞬戸惑うような難しい質問が削除される”と同時に、質問紙がスッキリしたものになるのではないだろうか。

授業というものは、授業者と学習者の間に、適切な緊張関係が無ければいけない。ボンヤリ聞いていると解らなくなってしまうのは、当然なことである。そして、解らないところで、質問したくなってまた当然なのである。黒板に書かないことでも「大事な話はメモしなければならない」。こんなのは当たり前過ぎるくらい当たり前の話であるのだが、昨今の学生には当たり前ではないから困るのである。“話の内容をメモできる学生”は、ウソみたいに少ない。ノートの取り方から注意し、促さないと板書以外のメモをする文化を持ち得ていないので、いやはや困ってしまうのである

世界国の財政が「火の車」なのに、外国にバラ撒き散らしたあげく、今日の状況(豊かさの実感できない、貧乏な感じの国)がある。平地面積も狭く、地下資源もない日本は、大国で有り得ない。そして、教育がガタガタになって「人的資源も当てに出来ない」。素直に見つめて「中位国」が、妥当なところなのだ。自国の分を見直し、堅実な国を取り戻すことが急務ではないのだろうか。

民主党政権も小泉政権と同じような雲行きになってきた。「発足当時は、国民の熱い期待を一身に受けていたけれど、化けの皮が剥がれてくると大いなる失望に転換してしまいそうだ」。でも、当初第一番の役割は、果たしてくれた、それでよいことにしよう。それは、自民党の「官僚依存、不勉強振りを国民に知らしめたこと」である。選挙で選ばれてきたとはいえ、不勉強な議員が大量に居て、尚かつ、「国政を担っているという自覚すら有るのか無いのか疑わしい先生達が大勢居て下さる」現状にウンザリさせてくれた。そして、官僚の(ズル)賢さに、いまさらながら恐れ入った。余程勉強した議員でないと対等に太刀打ちが出来ないことが解った。これらを解らせてくれたことが、今回の政権の値打ちだったと思われる。そうと解れば、「議員」と呼ばれる人達は、よく勉強する人だけが、「議員たり得て」不勉強や挙手だけのための人は、用なしである。そうとなれば議員数半減でちょうど良いぐらいではなかろうか。こんな国会や自民党の実態を見せてくれたことで、取り敢えずは、今般の民主党政権の役目は果たしたのではなかろうか。

鳩山政権の混迷。これで、とても良い社会変革の流れになるのではないだろうか。人間は、どうも余程の危機にでも出会わなければ“目が覚めない”ものだということが何となく解る気がする。ここで、鳩山政権が「普天間問題」を無策で投げ出して大騒動ならぬ「中騒動」を引き起こして、次の首相が出て来て「取り敢えずの策で収めて一件落着」となるのだろう。その後、夏の参議院選挙になるという政治日程の流れである。
これでとても良い流れが出来てくるように思われる。経済的に日本を追い越して世界二位に躍り出た「大国、中国」が、この後矢継ぎ早に世界にその存在を主張してくるからである。五月に上海万博がオープンし、半期間のお祭りが繰り広げられるだろうが、その水面下では、米国との「新規の覇権争いが繰り広げられている」らしいというのは、現在となれば、かなり的を射た推測になって来ているようだからである。“アメリカは、日本を守ってくれるのか”、「中国は、経済的にも軍事的にも、日本を脅かしてくるだろう」、そして、小沢の600人とも言われる訪中団は、結果的に「中国への迎合外交の象徴」であったとしたならば、“昨年夏からの民主党政権の半年間は、日本にとって「何だったのか」”と思われる。たった半年で、今迄ハッキリ見えなかったものが見えてきて、「いかに当てにならない政治家や官僚、その他のリーダーで、日本の国が仕切られてきたかを」多くの国民は見ただろう。これは、とても大事なことと思われる。日本国の実態が、いかに危機的な状況を迎えているかが、明らかにされてきたためである。

自民党も民主党も、これからの日本国のビジョンを示せなかった。自民党は、「保守」党としての責任を放棄してきたことが明確になったし、民主党もまるでバラマキばかりで今後の日本に対する責任感を感じさせない政党だった。かくなる上は、第三極の登場を待つばかりである。「良い流れ」と予想するのには訳がある。これから「新党が幾つか出来てくる情勢になって来た」。いやはや、まことに有難いことである。そして、この社会の変革期を感じてだろう、「坂本龍馬」が持てはやされている。“現在の龍馬出よ”ということなのであろう。その龍馬は、いずれかの新党から出て来るのではなかろうか。国難を救う若き政治家よ、出よ!。世はまさに、そのような様相を呈しつつある。テレビでは、相変わらず「バカ騒ぎ番組が多数放送されているが、本音を闘わせる政治番組も比重を増しつつある」。これも、世の中の風潮を感じ取ったものと言えようか。大多数の国民に危機感が浸透して来てからが、「世直しの好タイミング」だから、ここからが日本民族の賢明さが試される時だろう。それに絡んで、私が心待ちにしていたのは、「松下幸之助の蒔いた種、松下政経塾からの“庶民党”の誕生」である。その党が名乗りを上げそうな気運が高まっているようで、期待したいところである。

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