日本の経済環境は、まさにデフレスパイラルに陥っているようです。物価が下がり、生活防衛で消費が手控えられています。増えるのは、生活困窮で「生活保護を受ける人だけ」ではないのでしょうか。自分の財産を持たなければ、「生活保護」の認定を受ければ、子どもを育てているというような条件が付いてくれば、最高額月額28万円位の保護費が税金から支給されます。今時28万円は、凄い金額ですぞ。フルタイムで熱心に働いて20万円もらえない人が一杯居てる中で、これは凄い大盤振る舞いになります。その点では、日本は、素晴らしい福祉国家なのです。そして、その福祉を扱う役所は、厚生労働省なのです。
それはそれとして、本題は、前回の文章の後日談で「入所を待つ待機乳幼児」のことです。またまた愚痴になりますが、お付き合いください。
今子育て中の若い夫婦の経済基盤は、3〜40年前の夫婦のそれと様変わりしてきました。当時は、終身雇用が当たり前であって、亭主の稼ぎが一家の生活を支えられる額に達していれば、奥さんは仕事に出ずに、家庭を守り専業主婦の道を選んだものです。しかし、現在の若い人達の結婚生活は、不安定で、不確かなものになってしまいました。亭主が、“立派な会社の正社員”であっても、ゆったりと安心して生活できないのです。なぜなら、“立派な会社の正社員”であっても、いつクビになるか解らないからです。
そのような基本的不安が付きまとうならば、「危険分散」は世の当然の対処法です。即ち、「奥さんも職業を持たねばならない」ということです。そのような状況を追認するならば、「結婚生活の必然的ニーズとして」、仕事中子どもを預かってくれる託児所なり保育園という社会的施設が不可欠になります。そのような社会情勢を考えますと、入所を希望する乳幼児は当分減りませんし、それらの施設が増加しなければ、子供を作れなくて少子化の更なる進展に繋がり、まさに国家基盤が危うくなるばかりです。こんなことは、わざわざ書くまでもない当然の前提だと思われますが。
それで、本論ですが、先に書いたように「千個所の保育園」が2千億円で建てられます。小学校の空き教室を改造するつもりならば、もっとウンと安く作れます。でも、一向に保育園は作られません。厚生労働省が補助金を出すと言って法律まで作っているのですが、現実には一向に保育園は、増えないのです。ただ例外的に東京都内では増えているようです。ナゼでしょうか?。
その答は、“保育園の経営母体の制限を設けたままだから”だと思われます。補助金に関して、厚生労働省のネットに調べに行きました。そうすれば、A4用紙で70頁に渡る書類が出て来ました。読めども読めども法律用語で細かく微に入り細に入った記述が続きました。中程で読むのを止めました。「保育所・保育園の経営体の制限条項」が出てきたところで続きを読む気がしなくなりました。
何のことはありません。経営体は、「市町村自治体・社会福祉法人・学校法人」でなければならないと出たからです。これなら、以前とまるっきり変わりません。「園の開設に当たりクリヤーしなければいけない設置基準が緩められた報道」ばかり流れますが、経営体の縛りを以前のままに据え置いていたのでは、新規に経営しようという人や企業体が参入する余地がありません。これでは、厚生労働省のポーズだけの宣伝活動だけに終わります(東京都の例外はありますが)。
ビルの一角で、保育園が開けるようになりました。園庭の面積を緩和します等、“素人目には、厚生労働省が保育園を増やすのに努力しているように見えますけれど”、実質は「増えなくても仕方がない」という馴れ合い仕事でやっているだけなのでしょう。だって、学校法人は、保育園事業以外では、少子化で経営が難しいですし、税収の延びない市町村自治体は、人件費負担にアップアップで「保育所は民営・払い下げ」方向にあります。東京都だけは例外なのです。お金持ちですし、入所希望の乳幼児がまた数で多いからです。社会福祉法人は、「今の安定経営」でよいのです。さらに経営を広げるだけの人材の余裕もないのが実情と思われます。経営に無理をして、園児に怪我をさせたりすれば、寛容性のない親がどれ程突き上げてくるかを考えれば、“新規の経営に乗り出すとは思えない”。どうです。これでは、以前からの傾向と何ら違わないじゃありませんか。「補助金を出すというのは、ポーズですね」。本気で「待機乳幼児」を減らそうとは思ってないのではありませんか。
補助金を出して、本当に保育所・園なりを増やしたいと思うならば、「有る程度信用できる民間人なりグループなりに経営資格を解放しなければ」、新規の保育所・園は出来ません。経営資格をそれなりの民間団体に解放するならば、補助金+借入金で、新規の保育所・園の開業に漕ぎつけられるでしょう。例えば、私の前任の短大の卒業生の多くは、幼稚園教員免許や保育士資格を持って卒業し、結婚退職して子育て中または子育てを終わった経験者が多数います。園長や主任の経験者も人材プールの中からはすぐに見付けられます。彼女たちが、グループを作り、経営資格を与えられるならば、大阪府・奈良県・和歌山県で、それなりの活躍が出来ること間違いなしです。それは、彼女たちの働きぶりの実績で証明出来ると思います。そういう意味から言えば、「保育所を本気で増やす気があれば、園長経験者+資格者+サポート部隊のグループ等に経営体に成れる」道筋を用意するべきでしょう。
結局は、「役所が、本気で国民のニーズに応える気があるかどうか」だということです。厚生労働省が直轄で保育所を運営するのなら話は早いですが、そうでないなら新規の保育所が作られていく施策を用意しないと「待機乳幼児ゼロ」は実現するはずはないじゃないですか。私見ですが、「待機乳幼児問題」に関する本当のネックを書いてみました。
当たり前過ぎるような話で恐縮なのですが、「解っていること・口で言っていること」と“出来ていていること”とは違うものです。諺にも、「言うは易く、行うは難し」というではないですか。小学校の先生では、子どもの様子を見ないで授業をすれば、たちまち結果が現れてきます。クラスの子ども達のコントロールが取れなくなるでしょう。こうなると、イヤでも「子ども達の様子を見ながら授業を組み立てなくてはならないこと」が解ります。嫌でも思い知らされます。
でも、大学での授業となれば、教員が一方的に喋っていても「見掛けは授業に成っています」。学習者が、それなりに対応していてくれるからです。しかし、昨今の学生ならば、その対応がどんな結果をもたらすかは予断を許しません。授業に成らないことも多いことでしょう。
授業の3要素のところで(別頁、上の授業研究会のところ)述べたように、授業が成立するためには、「授業者・学習者・学習内容」の3要素が必須です。そして、それなりに良い授業であるためには、「学習者との間で、気の合ったキャッチボールが出来ていないといけません」。投げたボールは、相手が受けて投げ返されてくる必要があるからです。それは理屈です。その当たり前のことは、「実際に野球のボールでキャッチボールをすれば一目瞭然です」。相手の様子もさることながら、ボールを見失うだけで、捕球もままならなくなります。だから、キャッチボールの現場では、不真面目でない限り自然と「相手の様子とボールの様子」を見るようになります。ごく自動的に相手を見ています。それなのに、どうして授業になれば、学習者の様子も見ないで授業がやれるのでしょうか。
このような話の運びにしますと、「ナゼなんだろうな」とお考えの人も居られるでしょうが、その原因のとどの詰まりは、「相手(学習者)を見なければダメなんだという必要性を自覚していないことにある」と思われます。大学教員の相当多くは、学生の方に目を向けずに授業をしています。机に目を落としたり(ノートやパソコンを見ている)、黒板に向いていたり、窓の外や後の壁(学生の頭より上に目線が行っている)を見ています。そんな先生達の半数くらいは、「目の置き場に困っておられる」のではないでしょうか。そうでしたら、明日からしっかりと何を見るか意識してください。学習者(学生)の様子に“目を凝らしてください”。授業では、ボールのような見える具体物が飛び交わない分、余計に真剣に「こちらの投げ方は上手に投げられているか、学生の方もしっかりと受けているか」と、そのキャッチボールのスムーズさを確と見極めて行かねばなりません。目のやり場に悩んでいる場合ではないのですよ。
学習者を観察するようになれば、場数を踏めば自然に観察力がアップしてきて、学生の学習状況が見えてくるようになります。そうなれば、投げた玉がストライクゾーンに入っているか、ボールになったかが解るようになります。投げる玉に応じて打ち返してくれるからです。この見極めが付いてくれば、“授業をすることが、楽しみに感じられます”。でも、この心境にたどり着くまでがなかなかです(熱心に取り組まれるかどうかで要する時間が大きく違います。1年ぐらいを目標に頑張られると良いのではないでしょうか)。
心掛けとしては、「授業は、キャッチボールなのだ」と常に言い聞かせること」と、「投げた玉筋に興味をもって、ストライクが多くなるように努力する」とよいと思われます。そのような前向きの気持ちを持てば、以前のように目の置き場に困ることなどありません。良い授業のためには、しっかりと学習者を観察し続けなければならないのですから。
では、明日から、考え方を変えて頑張ってください。
気が付いた時が、始め時なのですよ。よろしく。
最近、物理学を専門とされている人達と、教育に関する話をする機会があり、教育畑の者としては当たり前の話を聞いていただいた。その後メールでもやり取りがあり、両者の考え方の違いが際立つたので、私としても大いに勉強させていただけた。それで、その時の議論をベースに、FD研究なりFD活動なりについて感じたことを書いてみたい。
どの研究分野でも同じと思われるが、「研究実績は、早い者勝ち」である。幾ら素晴らしいことを考えていたとしても、同じ内容を先に発表されてしまっては、負けである。それ故、同業者には手の内が解るような話はしないし、「敵に塩を送るような親切心は起こさないのが鉄則になる」。それは、競争だから仕方のないことでもある。
それに反して、研究でない教育の土俵では、議論の相手に「なるべく難しくないように、すんなり理解出来るような配慮が払われる」。即ち、職業としての教師は、解り易く教えてやる努力を自動的にするわけである。それが学習者本人のために「良いのか・悪いのか」は、ここでは不問にしての話である。教師の関わる多くの場面では、人間としての基礎知識であったり、専門外の教養としての知識を与えるような場面が多いからである。そのため、教師の職業的習慣として、学習者に「効率的な理解」を得させるための学習ルートを選ぶように成っていると言える(今時、こんな熱心な教師は貴重品なのでしょうが)。
物理を専門にする先生方は、ごく自動的に「研究者」という性格が前面にでていたため、「学生時代に物理を学んだだけ程度の私(授業研究者であっても物理の素人)に」、語られる内容が難しすぎたのである。私の方は当然ながら、質問するし、もっと解るように言って下さいと要望するわけで、一部の先生は「そこで面食らわれた」と想像できる。“そんなことは、お前が勉強して、議論に参加するのが仁義だろうがと”。おっとどっこい、「それは、物理を専攻する学生さん達に求めるところでしょう。こちとら、素人でそんな難しいことを言われても、“解るわけがないでしょう”。遠慮もせずに切り返したもんだから」、そこで一挙に「教える」ということの問題が吹き出たのでした。
その顛末を一言で解るように書けば、タイトルにしたように、「研究は、競争。教育は、サービス精神で」ということろに落ち着くものと言える。そして、私の感覚で言えば、大学教員の殆ど総ての人は、「研究者でありつつ、教育者でもある」わけで、一人の人間が、往々矛盾する二つの局面に身を置いている。そして、その現実を如何に認識し、いかに対処していくかということについて、自分なりに解答を出して、実際に対処して学生指導なり、研究の競争に参加しなくては成らないのである。
こんなことは、冷静に考えれば、当然のことで議論に値しない問題だと言われてしまうくらいの問題なのだろうが、FDの問題(教育改善)としては、一種象徴的な問題点だと思われる。研究重点の大学か、片や教育重点の大学かで、問題の出方の趣は違ってくると思われるが、教員側にとっては、どちらも同じ二つの局面での問題なのである。そして、FD・教育改善にとっては、言うまでもないぐらい明白に「サービス精神で教育に当たってくださいよ」という地点が、落とし所なのである。どの大学にあっても、ここはFD活動での重要な落とし所なのである。教育改善の局面で、先生方のともすれば「専門研究への傾斜に対して、学生へのサービス精神を忘れないでくださいよ」と言いたいところなのである。
FD・教育改善に絡んで、この問題について強調しておきたい点がある。それは、大学教員は、みんな研究と教育の二つの場面を意識して、「働き分け」をしなければいけないということである。“お客さんに近い学生達の授業”では、当然のことながら「サービス精神を発揮した教育重点の講義をしなければならない」のである。他方、研究面でしごいた方がよい授業では、「時間も掛けて、面倒見よく、しかし、甘やかすことなく厳しい授業」をして行かねばならないのである。「働き分け」は、正味この味付けの問題なのである。サービス精神で「甘く美味しい」味付けにするか、厳しい味にするかである。
その点に関して、FD・教育改善上で重要なポイントがある。それは、厳しい表現で失礼だが、「手抜きの授業をしてきたかどうか」ということである。踏み込んで言うと、お客さん学生に対して、「それなりの努力をして、解らせる努力をしてきたかどうか」ということである。大学全入時代、学力の低い学生が増えてきた今日、大学教員の大変さを身に染みて理解しているが、“いい加減に単位を与えている教員も結構多い”感じがする。肝心なことは、「大学教員」という矜持が有るか無いかである。「手抜き授業」は、FD・教育改善活動としてはいただけない。弁解の余地無しである。でも、これは本人にとって微妙な問題である。手抜きなのか、ほどほどやって来たと思うかの「差」である。でも、この差を、本人がどう受け止めるかが問題で、その地点にFD・教育改善の問題点が落ちているかも知れないのである。
私は「大昔、学生時代に教え惜しみをした教員」に出くわしたことがある。私は闘争世代の人間であるから、その先生に親しげに声を掛けたことを憶えている。「先生、××の本には、スンナリと解り易く書いてある。先生の授業は、わざわざ難しく教えているのと違いますか」と。まだ、牧歌的な教員と学生の人間関係が残っていた頃の、良き「苦い」思い出である。今の学生は、もっとシビアーでストレートだと思われる。授業評価(期末の1回だけの評価は信頼性がないのだが)に厳しい点を付けてくる学生の心情を思った時、多少の反省を感じるなら、それはそれで、教員としてはその評価を甘んじて受けて、感謝したいところである。
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