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・再稼働の条件は、「何としてもメルトダウンの手前で原子炉を止められるようにする対策を施すこと」
・“遠隔操作”は、重大事故時「最終的に操作不能になること」を想定しなければならない⇒最後は人の力
野田首相のころからも原発再稼働の話は出て来ていたが、原子力規制委員会もメンバーを一新して、「原発の安全な再稼働に向けて」議論を開始した。また、アベノミクスで円の雰囲気を変えた阿部総理になって、「再稼働を待ちわびるかのような景気が上昇中」のように見受けられる。そうはいえど、規制委員会が、「原発トラブルに際しての住民の避難体制をどう確保するか」という青写真を関連する地方自治体に求めると、足並みの揃わない現状が露呈した。
それでもこの後、「原発の安全性と再稼働の条件について」の議論が展開される予定になっている。

そこで、これまで色々原発問題についてコメントとしてきた責任上、議論の同じ土俵で、いくつかの大事な内容にコメントしておこうと思う。

規制委員会は、活断層の議論を活発に展開しているが、「何万年前に断層が動いたかどうか」という議論は、重要な内容であるわけだが、国民一般には、「専門的過ぎて、何を議論しているかが掴めない」。専門家の議論は、ともするとこんな感じで、一般人には「訳の解らない議論」に映る。これは困った状況で、「原発という多くの国民に関わる問題にも関わらず、何を議論しているかも解らない」。その点、原発問題に関わる専門家は、「専門家内部の議論」と「国民への説明責任を果たし得る説明性を確保する」両面性を意識して、記者会見等に臨む必要があると思われる。

そこで、活断層の議論の背後にある「原発問題の根本的な考え方の枠組み」について、何度も重なるが再度書いておきたい。
それは「原子炉の最低限の安全な停止措置について」の考え方の枠組みである。以下、かなり専門的になるが、重要な視点を指摘しておきたい。(原発問題の基本を知りたい人は、別ページの原発わかりやすい解説をお読みください)

◎「原子炉を重大事故の手前で停止させる」には、次の2つの条件が満たされる必要がある。

①制御棒の挿入で核反応を止めたら、②燃料棒を冷やすべし(これが最大の課題)ということである。燃料棒を十分に冷やせなかったら、「燃料棒が高温になって、熔融し炉心溶融(メルトダウン)に至る」からである。事態が、メルトダウンに進むと事故は深刻な段階になり、大量の放射性物質の放出になってしまう恐れが強い。それ故、もしも、原子炉事故が起きたとしても、“何としてもメルトダウンの手前で収束させなくではならないのである”。
メルトダウンを止める方法は、燃料棒の冷却にあり、電源喪失やバッテリーを備えて云々の話ではないことを肝に銘じていただきたい。事柄は、科学的に単純である。原子炉の運転を制御棒の挿入で停止できても、燃料棒を高温に晒すと「炉心溶融=メルトダウンに必然的に進んでしまう」のである。この間の事情を正しく理解していただきたい。

再稼働の条件は、「何としてもメルトダウンの手前で原子炉を止められるようにする」という条件を整えることだと思われる。

「緊急炉心冷却システム」が確実に作動してくれないと原子炉の安全な停止措置がとれないので困るのだが、地震等の災害時、システムが正常に働かないのを前提に、如何にその他の方法で炉心冷却を継続できるかを考えておかねばならない。
その点で考えるならば、高圧冷却ポンプが働かない場合の対策としては、「冷却水タンクを原子炉の傍に設置し、その水に常時高い圧力を掛けて用意しておく」ことである。そして、イザの時には、バルブを開けて、原子炉本体に冷却水を流し込むのである。
また、福島の事故でハッキリしたが、海の傍に立地していたとしても、必要な時に水が手に入らないことが起きる。その時、水冷システムが万全でないなら、それを補完する意味で、「空冷システムも備える必要が出る」ことになる。「緊急炉心冷却システム」の水冷系が作動しないならば、空冷系に切り替えて、燃料棒の冷却を維持する必要性があるのである。これくらいの予想はする必要があるのではないか。

○格納容器への放水で冷却することには、殆ど意味がないこと
冷却に関連して、一言付言すべきことがある。それは、「格納容器への放水用に消防車が用意されようとしている事態に対してである」。今回福島原発事故では、放水されたが、それは有効な対策が無いために仕方なくとった処置であり、言わば気休めだ。原子炉の停止のためには、原子炉本体(燃料棒)を冷やさないと意味がない。格納容器は、原子炉からの放射性物質を空気中に放出しないために閉じ込める施設として考えられて設置されてきたわけだが、原子炉本体の冷却だけを考えれば、“障害物的要素の方が大きい”と思われる。冷やすべきは、燃料棒であって、原子炉本体(圧力容器)内に冷却剤:水を注ぎ込めなくては効率の良い冷却は出来ない。まして、格納容器を冷やしても、燃料棒の冷却効果は殆ど期待できないので、「格納容器の冷却のためにだけで」消防車が用意されたとなれば、それは大きな誤解を生む。消防車は原子炉本体が低圧ポンプの冷却を受け付けるようになった際の「燃料棒冷却のために使われるべき」なのである。あたかも格納容器を冷やすために消防車を用意したと思わせる図解までして説明することは国民に大きな誤解を与えると思われる。

新しい規制委員会のコメントで、遠隔操作によるベント弁の設置の話が出たが、福島の実際から考えてみても、“遠隔操作”は、重大事故時「最終的に操作不能になること」を想定しなければならないと思われる。それにも関わらず規制委員会は、「ベント弁の操作は遠隔操作が当然の基本だ」と言わんばかりに訴えている。しかし事実が教えたとおり、遠隔操作は使えないものと想定すべきである。この想定はどういうことを意味するか。即ち、ベント弁は、最終的に人力で操作できる構造にしておかねばならないということである。遠隔操作が働くならば、遠隔で操作をすればよいのだが、最終的に「人間(ロボット)が出動するしかない事態になった時」、重要な弁の開閉を人力でする必要があるということである。即ち、弁は「人間が行ける環境」に設置する必要があり、弁の回転のためのテコを備え及び作業のための足場を確保する必要があるということである。これは即ち、遠隔操作と人力による操作のどちらでも可能な構造の弁を要所に設置する必要があるということになる。最終的な土壇場では、人間の力しか頼れないということである。

○原子炉建屋が地盤変動で「股裂き状態に成らないこと」
「活断層の議論について」少しコメントしておく。原子炉建屋の真下を断層が走っているとどういう事が起きると考えられるかという事である。地震で地層が動く場合、同じ岩盤では「主として上下にずれる」(傾くこともあるだろうが)。即ち、原子炉建屋が「同じ岩盤の上に設置されている場合」、地震動の後、地面の高さが変わることがあっても、ほぼ水平は保たれると考えられる。しかし、建屋が2つ以上の岩盤上にあれば、「地面の高さが変わる可能性が高くなる」。即ち、頑丈な建屋と言えども、高さが変わると「傾くことになる」ことは想像に難くない。活断層かどうか。いつ頃動いたか。そして、その断層線が原子炉建屋の下を通っているかどうかという一連の議論は、“地震に遭遇したとき原子炉建屋が傾いて、燃料棒の冷却に支障が出るかどうかと言う議論なのである”。

◎それから、私の再稼働の条件で、以前から強調しているものがある。再度その重要性を指摘して、ぜひ再稼働の重要条件として考えてもらいたい思う。

私が再稼働の条件として譲れないのが、「燃料棒保管プールを原子炉建屋から移すこと」である。福島3号炉の大爆発は、「燃料棒プールが“裸の原子炉”になって爆発してしまった」ためだと指摘している。これは、4号炉で「必死に燃料棒の取り出し作業が続けられていることと」同じ論拠になる。原子炉建屋の中に、「いつ大爆発を起こすか解らない燃料棒プールを一緒に抱えていること」が、どの位危険を高めているか考えれば解ることだ。日本では、既に2度の「裸の原子炉」が出来てしまったのである。三度目は起こしては成らないものと思われる。

以上、箇条書き的ではあるが、世間で進みつつある「再稼働の条件を検討する議論への私のコメント」とする。

投稿日 2013.3.17

復興の後に五輪を迎える、この順番だよ

五輪に浮かれている場合ではないよ。まだ、4号炉の燃料プール及び1〜3号炉の泥と化した核燃料の集積で、いつ大爆発(再臨界)があるか解らない状況は続いているのだ。この後の爆発が起きないように、そして、未知の膨大な問題解決が待ち構えている。それらにどう対処していけばよいのかを真剣に研究・解決していかねばならない。東電や旧原子力ムラからの情報は信用できない。また殆どの情報は隠蔽されていると思われる。このような悪弊から解き放たれて「国民目線で原発事故からどう立ち直るか」を考えないといけない。
そのためには、「半官半民の原発事故克服研究所:仮称(所長は原子力ムラに属さない原子力の専門家を民間から選ぶ)」を作り、「再臨界の起きないように・燃料棒や核燃料の汚泥等放射性物質をどのように扱い処理していくか・除染等の環境放射能対策・住民の健康配慮・廃炉への研究・国際勧告を無視するまでに安全神話が作られてきた歴史の検証など」の広域の研究を国民に明らかにしつつ先進的に進める必要がある。

汚染水問題は、始まりの象徴。今後50年と莫大なお金が掛かる原発事故収束処理のために、科学・技術に基づく公明性のある原発事故克服研究所(仮称)を新規に設ける必要があると私は思っている。

原子力安全規制委員会は、原発の再稼働の審査に掛かりっきりになる。事故を克服していくには、原発の現状を正しく把握し、どう対処するかを科学的基盤の上で研究・議論していく研究所が、今や不可欠であり、原発事故で世界に迷惑を掛けてきた日本の国家的貢献であると思われる。

投稿日 2013.9.18

また学生による授業評価の季節がやって来た。多くの大学では、まもなく22年度前期の授業終了である。そして、終了に近付いたところで、習慣化してきた「学生による授業評価アンケート」が配られ、学生による「授業者の授業の出来不出来が評価される」のである。私も今日1科目アンケートを配り、回収した。

私は、長年授業研究を研究対象としてきたので、学生が授業評価をするのはとても良いことのように思え、当初この流れは必要・必然なものと考えて歓迎していた。しかし、毎年繰り返される学生による授業評価を受けて、その結果のフィードバックを受けて、さしたるプラスが無いために、この評価活動に割くエネルギーとコストを考えると「惰性的にしている授業評価」は、そろそろ止めにしないといけないのではないかと思い出しているところである。(例外的にFDをうまく効果的に実施している大学も少数出て来ていて、同じ続けるのなら上手に運用している大学からノウハウを学び、導入させて貰うべきだと思われる)。

私は、授業評価アンケート用紙を配る前に一言コメントした。
授業を熱心に聞いて解らないのならば、教師である私の責任だ。解るように教えなければならない努力が足りなかったからだ」。“でもね、授業を真面目に聞いていない人やよく休んでいた人は、この授業評価に答える資格がないと私は考えているよ”と。これに呼応してくれたのかどうか解らないが、44人中一人がアンケート用紙を出さなかった。大概習慣のようにみんな出すから、一人は出すのを遠慮したのだと思っている。彼は訴えたことをキチンと聞き届け、誠実に対応してくれたように感じて、「すがすがしい気持ちの良い青年であると内心感心した」。

このコメント、先生方が読まれたなら“当たり前”のことでしょう。だって、半分以上の学生が解ったと反応している時に、尚、「難しかった・解らなかった」と臆面もなく書いてくる学生が少数居るのだから。その人数は、授業中寝ていたり集中していない学生数とほぼ一致するのだから、こちら側は「証拠があるのである」。(私は、“授業の苦情改善法”という授業改善の方法を提唱していて、毎時間出席表に授業の感想・解らなかったところを書いて貰うようにしているから、これらのことが言い得るのである)。短時間寝てしまうのは睡魔に襲われて寝た経験が自分にもあるので、大目に見るのであるが、睡魔に抵抗する様子もなく「解る努力をしないで寝てしまう学生には、閉口する」。寝ていて周囲に迷惑を掛けない場合は、大目に見るしかないからだ。でも、そんな学生の感想文は、難しい、解らないとなっている。人数的に確かめられるのだ。
高い授業料払って、大学に勉強に来てるのなら「解ろうと思って、その気で授業を聞けば、所々は解るはずなのだが、それをしないし、拒否している」。そういう学生にどんなアドバイスをしてやると良いのだろう。教師としては、誠に困ってしまうシーンである。

評価側の学生の事情を書けば以上のような例があり、何とも救いがたい学生から熱心で真面目な学生まで、努力の程度でも様々な学生が様々に答えるわけだが、他方、学生サイドでない問題点もある。
それは、アンケート質問紙の問い掛けにかなり重大な欠陥があるのではないかと思わせられるからである。例えば、「アナタ=学生は、この授業にどの程度出席しましたか」という質問がある。そして、50%以上とか、色々な%が示され、相当する答を書き入れることになっている。この質問に関する回答は、抜群によい値になる。「自分は頑張っている」と思いたいし、事実頑張っているのだろうからである。でも、ナゼこの質問が有るのだろう。こういう質問紙を使っておられる大学は、是非質問項目を授業評価するための妥当な質問であるように考慮して欲しい。

早い話、この質問に授業評価としての意味が見出せるものでしょうか。昨今の学生は、授業を真面目に聞く気がなくても、熱心に出席する傾向がある。出席点というものを当てにしている精だろうか。しかし、「出席」と「授業を熱心に聞く」との間には何の関係もないと言わざるを得ない。授業評価アンケートの質問としては、「アナタは授業を熱心に受けていますか」でないといけないのではないか。教室内に座ってはいるが、寝ていたり、携帯電話で遊んでいたり、漫画やスケジュール帳などを見ていたりしているなら、授業を聞いているとは言い難いではないか。その他、的はずれな質問が多々あるように見受けられる。そういう質問は、そもそも不要なのである。全質問項目について、見直していただけると幸いだ。

質問項目に関して、私は研究発表と論文を書いたことがある。その骨子は、「授業評価アンケートの質問は、次の3つで十分だ」。①その授業を受けて、最終的に授業が理解出来たかどうか。②アナタは、その授業を熱心に受けたかどうか。③教師は、学生に解らせる努力を十分払っていたかどうか。以上の3点がチェック出来たら良いのではないかと思えるからである。(京都大学高等教育研究開発推進センター、第13回大学教育研究フォーラム発表論文集P66-7,2007年)
http://www.highedu.kyoto-u.ac.jp/edunet/archive_pdf/07.p066.kusa.pdf

この3項目の質問で良いのではないですか。どう思われますか。多くの大学の質問紙は、20問程度の質問が並んでいるが、あたかもA4用紙の広さに合わせるように多数の質問を並べているかのような印象である。この辺で「本当に授業評価に関する質問として妥当かどうか」今一度吟味したいものである。そして、不要な質問を捨てて、学生に、教師に、注意を喚起する質問項目だけに絞れば、“何のためにその質問が設定されているか答えるのに一瞬戸惑うような難しい質問が削除される”と同時に、質問紙がスッキリしたものになるのではないだろうか。

授業というものは、授業者と学習者の間に、適切な緊張関係が無ければいけない。ボンヤリ聞いていると解らなくなってしまうのは、当然なことである。そして、解らないところで、質問したくなってまた当然なのである。黒板に書かないことでも「大事な話はメモしなければならない」。こんなのは当たり前過ぎるくらい当たり前の話であるのだが、昨今の学生には当たり前ではないから困るのである。“話の内容をメモできる学生”は、ウソみたいに少ない。ノートの取り方から注意し、促さないと板書以外のメモをする文化を持ち得ていないので、いやはや困ってしまうのである

投稿日 2010.7.14

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