読みもの

当たり前過ぎるような話で恐縮なのですが、「解っていること・口で言っていること」と“出来ていていること”とは違うものです。諺にも、「言うは易く、行うは難し」というではないですか。小学校の先生では、子どもの様子を見ないで授業をすれば、たちまち結果が現れてきます。クラスの子ども達のコントロールが取れなくなるでしょう。こうなると、イヤでも「子ども達の様子を見ながら授業を組み立てなくてはならないこと」が解ります。嫌でも思い知らされます。
でも、大学での授業となれば、教員が一方的に喋っていても「見掛けは授業に成っています」。学習者が、それなりに対応していてくれるからです。しかし、昨今の学生ならば、その対応がどんな結果をもたらすかは予断を許しません。授業に成らないことも多いことでしょう。

授業の3要素のところで(別頁、上の授業研究会のところ)述べたように、授業が成立するためには、「授業者・学習者・学習内容」の3要素が必須です。そして、それなりに良い授業であるためには、「学習者との間で、気の合ったキャッチボールが出来ていないといけません」。投げたボールは、相手が受けて投げ返されてくる必要があるからです。それは理屈です。その当たり前のことは、「実際に野球のボールでキャッチボールをすれば一目瞭然です」。相手の様子もさることながら、ボールを見失うだけで、捕球もままならなくなります。だから、キャッチボールの現場では、不真面目でない限り自然と「相手の様子とボールの様子」を見るようになります。ごく自動的に相手を見ています。それなのに、どうして授業になれば、学習者の様子も見ないで授業がやれるのでしょうか。

このような話の運びにしますと、「ナゼなんだろうな」とお考えの人も居られるでしょうが、その原因のとどの詰まりは、「相手(学習者)を見なければダメなんだという必要性を自覚していないことにある」と思われます。大学教員の相当多くは、学生の方に目を向けずに授業をしています。机に目を落としたり(ノートやパソコンを見ている)、黒板に向いていたり、窓の外や後の壁(学生の頭より上に目線が行っている)を見ています。そんな先生達の半数くらいは、「目の置き場に困っておられる」のではないでしょうか。そうでしたら、明日からしっかりと何を見るか意識してください。学習者(学生)の様子に“目を凝らしてください”。授業では、ボールのような見える具体物が飛び交わない分、余計に真剣に「こちらの投げ方は上手に投げられているか、学生の方もしっかりと受けているか」と、そのキャッチボールのスムーズさを確と見極めて行かねばなりません。目のやり場に悩んでいる場合ではないのですよ。

学習者を観察するようになれば、場数を踏めば自然に観察力がアップしてきて、学生の学習状況が見えてくるようになります。そうなれば、投げた玉がストライクゾーンに入っているか、ボールになったかが解るようになります。投げる玉に応じて打ち返してくれるからです。この見極めが付いてくれば、“授業をすることが、楽しみに感じられます”。でも、この心境にたどり着くまでがなかなかです(熱心に取り組まれるかどうかで要する時間が大きく違います。1年ぐらいを目標に頑張られると良いのではないでしょうか)。

心掛けとしては、「授業は、キャッチボールなのだ」と常に言い聞かせること」と、「投げた玉筋に興味をもって、ストライクが多くなるように努力する」とよいと思われます。そのような前向きの気持ちを持てば、以前のように目の置き場に困ることなどありません。良い授業のためには、しっかりと学習者を観察し続けなければならないのですから。

では、明日から、考え方を変えて頑張ってください。
気が付いた時が、始め時なのですよ。よろしく。

投稿日 2010.2.2

最近、物理学を専門とされている人達と、教育に関する話をする機会があり、教育畑の者としては当たり前の話を聞いていただいた。その後メールでもやり取りがあり、両者の考え方の違いが際立つたので、私としても大いに勉強させていただけた。それで、その時の議論をベースに、FD研究なりFD活動なりについて感じたことを書いてみたい。

どの研究分野でも同じと思われるが、「研究実績は、早い者勝ち」である。幾ら素晴らしいことを考えていたとしても、同じ内容を先に発表されてしまっては、負けである。それ故、同業者には手の内が解るような話はしないし、「敵に塩を送るような親切心は起こさないのが鉄則になる」。それは、競争だから仕方のないことでもある。
それに反して、研究でない教育の土俵では、議論の相手に「なるべく難しくないように、すんなり理解出来るような配慮が払われる」。即ち、職業としての教師は、解り易く教えてやる努力を自動的にするわけである。それが学習者本人のために「良いのか・悪いのか」は、ここでは不問にしての話である。教師の関わる多くの場面では、人間としての基礎知識であったり、専門外の教養としての知識を与えるような場面が多いからである。そのため、教師の職業的習慣として、学習者に「効率的な理解」を得させるための学習ルートを選ぶように成っていると言える(今時、こんな熱心な教師は貴重品なのでしょうが)。

物理を専門にする先生方は、ごく自動的に「研究者」という性格が前面にでていたため、「学生時代に物理を学んだだけ程度の私(授業研究者であっても物理の素人)に」、語られる内容が難しすぎたのである。私の方は当然ながら、質問するし、もっと解るように言って下さいと要望するわけで、一部の先生は「そこで面食らわれた」と想像できる。“そんなことは、お前が勉強して、議論に参加するのが仁義だろうがと”。おっとどっこい、「それは、物理を専攻する学生さん達に求めるところでしょう。こちとら、素人でそんな難しいことを言われても、“解るわけがないでしょう”。遠慮もせずに切り返したもんだから」、そこで一挙に「教える」ということの問題が吹き出たのでした。

その顛末を一言で解るように書けば、タイトルにしたように、「研究は、競争。教育は、サービス精神で」ということろに落ち着くものと言える。そして、私の感覚で言えば、大学教員の殆ど総ての人は、「研究者でありつつ、教育者でもある」わけで、一人の人間が、往々矛盾する二つの局面に身を置いている。そして、その現実を如何に認識し、いかに対処していくかということについて、自分なりに解答を出して、実際に対処して学生指導なり、研究の競争に参加しなくては成らないのである。

こんなことは、冷静に考えれば、当然のことで議論に値しない問題だと言われてしまうくらいの問題なのだろうが、FDの問題(教育改善)としては、一種象徴的な問題点だと思われる。研究重点の大学か、片や教育重点の大学かで、問題の出方の趣は違ってくると思われるが、教員側にとっては、どちらも同じ二つの局面での問題なのである。そして、FD・教育改善にとっては、言うまでもないぐらい明白に「サービス精神で教育に当たってくださいよ」という地点が、落とし所なのである。どの大学にあっても、ここはFD活動での重要な落とし所なのである。教育改善の局面で、先生方のともすれば「専門研究への傾斜に対して、学生へのサービス精神を忘れないでくださいよ」と言いたいところなのである。

FD・教育改善に絡んで、この問題について強調しておきたい点がある。それは、大学教員は、みんな研究と教育の二つの場面を意識して、「働き分け」をしなければいけないということである。“お客さんに近い学生達の授業”では、当然のことながら「サービス精神を発揮した教育重点の講義をしなければならない」のである。他方、研究面でしごいた方がよい授業では、「時間も掛けて、面倒見よく、しかし、甘やかすことなく厳しい授業」をして行かねばならないのである。「働き分け」は、正味この味付けの問題なのである。サービス精神で「甘く美味しい」味付けにするか、厳しい味にするかである。

その点に関して、FD・教育改善上で重要なポイントがある。それは、厳しい表現で失礼だが、「手抜きの授業をしてきたかどうか」ということである。踏み込んで言うと、お客さん学生に対して、「それなりの努力をして、解らせる努力をしてきたかどうか」ということである。大学全入時代、学力の低い学生が増えてきた今日、大学教員の大変さを身に染みて理解しているが、“いい加減に単位を与えている教員も結構多い”感じがする。肝心なことは、「大学教員」という矜持が有るか無いかである。「手抜き授業」は、FD・教育改善活動としてはいただけない。弁解の余地無しである。でも、これは本人にとって微妙な問題である。手抜きなのか、ほどほどやって来たと思うかの「差」である。でも、この差を、本人がどう受け止めるかが問題で、その地点にFD・教育改善の問題点が落ちているかも知れないのである。

私は「大昔、学生時代に教え惜しみをした教員」に出くわしたことがある。私は闘争世代の人間であるから、その先生に親しげに声を掛けたことを憶えている。「先生、××の本には、スンナリと解り易く書いてある。先生の授業は、わざわざ難しく教えているのと違いますか」と。まだ、牧歌的な教員と学生の人間関係が残っていた頃の、良き「苦い」思い出である。今の学生は、もっとシビアーでストレートだと思われる。授業評価(期末の1回だけの評価は信頼性がないのだが)に厳しい点を付けてくる学生の心情を思った時、多少の反省を感じるなら、それはそれで、教員としてはその評価を甘んじて受けて、感謝したいところである。

投稿日 2009.9.23

ご案内を頂いたので、09.5.29日、福井県学習コミュニティ推進協議会(略称:F−LECCS)の第二回シンポジュームに参加させていただきました。そこで、見出しの言葉が紹介されました。Power Pointの画面で大写しになりました。咄嗟にメモしきれなくて、画面を戻していただいて写しました。(その後、小田先生にネツトで紹介してよろしいですかとお断りをしまして、ご了解の上で書いています。念のため)
最初、ごく短時間画面が写されたのですが、文字がパッと目に飛び込んで来たときに、この表現とても面白い。カツコイイと直感しました。私にとって、FDという得体の知れない言葉に「何か良いイメージ付けが出来ないものか」といつも頭の片隅で思っていたものですから、【これ、日本のFDという言葉の定義付けにちょうどいい】と感じたのでした。それは、小田先生がしっかりとお考え下さった後の産物だからでしょう。
これ以前のFDに対する私のコメントは、FDの実際は、「個人の営み」と「組織での営み」が両方ありますよ。それらを区別しないで一緒くたにして(混ぜてしまって)FDというものを議論するならば、「FDは、ボトムアップで行かないとダメ」とか反対に「FDは、トップダウンでいかないと成功しない」とかの話が出て錯綜し、「議論のための議論」をしているような雰囲気さえ醸し出されるのが避けられませんよというものでした。それは、現在の「FD」という用語の使い方では、「FD」という日本語の名詞が出来たような感じで、内容の規定が曖昧なままの“雰囲気用語?”になっているように思われました。この用語法の現状を何とかしないとダメだと思っていたところに、今般福井でこの言葉に接したわけです。

日本語でないFDが、あたかも日本語の特定な名詞のように使われてきている現状は、否定すべくも無く存在しているわけで、そして「FD」という言葉が、「今後の日本の大学の運営・経営に大きな影響を与えるであろうという予測の基で」、「FD」をもっと積極的な面で受け止めて貰える言葉に「進化」させないと「FD活動」が広がらないと危惧されるわけです。それでなくても、FDに関心を持っていただきたい「まだ無関心な先生方」がたくさん居られる現状を如何に打破するかが喫緊の課題なわけです。そのためにも、どう見ても英語の「FD」という用語で「大学教育のレベルアップ」を象徴させようとするには、日本文化の中で違和感が残るのは如何ともできない事実であります。もしも、このままFDという言葉を使い続けるのであれば、「最低限、意味のハッキリしない現状を改める必要はある」と思われるわけです。その時、暫定的にでも考慮すべきは、「日本語としての文脈で語られる“FD”という用語の実際的・現実的な定義付けが必要になる」と思うのであります。この時点で、先程の小田先生の「米国の文化にワンクッションを置いたような定義」がそれなりに意味があるのではないかと直感したわけです。

大阪へ帰る車中でも、あれこれとこの一文を考え続けました。そして、小田先生のお考えが、しみじみと迫ってきまして、「これはいい」と再度納得しました。現在の日本のFD活動の現状を踏まえて、尚かつ、広い視野で考えたならば、“日本語のFD”という言葉に対する「当面の意味付けにふさわしいように」思われるのでした。“日本語のFD”=「トータルな大学教育のレベルアップ」⇒それをカッコヨク言い換えて【校風を創造し、具現化する装置である】とするアイデアなわけです。これで、「FD」のイメージを少し変えていただいて、今迄FDに躊躇されていた先生方に腰を上げていただけるようにならないものでしょうかね。“我が大学の校風を誇らしいものに具体的に作り出していく活動なんだ”と思っていただけると幸いではないでしょうか。今の訳の解らないFDという言葉より「余程、親しみと現実感を持ってもらえる」ように思うのですが。さらにだめ押ししておきますと、「大学教育のレベルアップ」という表現では、何か人ごとのようだし情緒がないでしょう。「校風を創る」なんて表現にすると、なんだかロマンが漂ってくるのではないですか。本当のところ、FD活動は、ロマンを持って進める活動に違いないと思うのです。だったら、ロマンを感じさせないとね。

FDは、最終的に個人の授業改善活動として完結するのでしょうが、その個々人は「教員組織の各構成員」であり、“組織的なFD活動を前提とするならば”、【個人の授業改善活動は、最終的に組織的な方向性を内包するわけで】、“それは正しく、誇らしい校風を創造する活動として結実するものでしょう”。時の経過と共に、また違った定義が将来提案されてくることもあるでしょうが、私個人は、現時点では小田先生の提示されたこの「FDの定義に飛び乗りたいですね」。なぜなら、最後の畳み込みの工夫がまた凄いからです。それは、観念的な思いだけのFDでは、ダメだよと畳み込まれているからです。【目に見える形での成果が実感できてこそ】という但し書きが付いてくるのですから、私にはたまりませんね。なぜかと言えば、それは前回のコメントに関係してきます。前回私は、「FDの効果の研究について」書きましたが、私自身の体験から言いますと、「自分の授業が進化・向上してくると、学生とのやり取りがどんどん変わってくるのです」。その効果は、目に見えますし、実感できるのです。それを数値で出そうという試みは有ってもいいでしょうが、そんな顕著な変化を微妙な数字に置き換えねばならないものなのでしょうかねぇ。
但し、この変化は、そう短期的に出るものじゃないですよ。それ相当の研鑽を積んでいって数年経てば、「目に見えて変容しているもの」です。正味、その変容に自分自身で気付かない方がおかしいでしょうね。即ち、「有効なFD活動」を続けていけば、「ある種顕著な変容が起きてくる」のが予想されます。個人の授業として、学部や大学全体に醸し出す雰囲気にも顕著に出て来ます。真に歴史のある大学の良さとは、こういったものの集積にあるのだと思うのです。まさに「校風として具現化する」のです。具現化してこそ、ホンマものです。理屈をこねるだけでは、変化は出てこないでしょうね。ここに、「具現化」と言葉を入れられたのが、念には念を入れられたことを物語っています。

本日は、福井で勉強させていただいたことをアップすると同時に、「現在それらしい定義無しで使われている“FD”なる用語に関して、当面の日本語的定義を小田先生ご提案の【FDは、校風を創造し、具現化する装置である】と定義してみては如何でしょうと」ネットを通じて問題提起させていただいたことといたします。

(有)日下教育研究所 所長 日下 和信

投稿日 2009.6.1

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